コモンの再生

内田樹『コモンの再生』を期待して読みました。

コモンとは「社会的共通資本」と呼ばれるものとほぼ同じで(後者は経済学者宇沢弘文氏が提唱した概念)、誰でも自由にアクセス・利用できる共有地・入会地などがイメージされます。
それが資本主義の勃興と共に私有化され(エンクロージャー)、そこから締め出された人たちが都市に流入してプロレタリアートになり資本主義の発展を支えた、という言説は私も高校時代に習いました。
そうして誕生した賃労働者の悲惨な状況に胸を痛めたマルクスが、私有化されたかつてのコモンを解放することで彼らを救おうとして『資本論』を書いたわけですが、この思想こそがコモン主義すなわちコミュニズムだということは私は斎藤幸平の本で知りました(従って共産主義という訳はよくないと内田は言います)。

というわけで、資本主義の行き詰まりがいよいよ鮮明になってきた現在、ロシア革命の失敗にとらわれず、もう一度原点に帰ってコモンの解放を論じようとする斎藤幸平らの主張が注目されていますが、内田樹の本書もそのような期待に応える著述であるに違いないと思って読み始めたわけです。

結論から言うと、いささか期待はずれでした。
たしかに最初はコモンについて書かれています。

たとえば、1964東京オリンピックは「ドラえもんの空き地」が姿を消して「私有地につき立ち入り禁止」と言う立て看が目立つようになったと言う意味で近代日本における囲い込みが本格的に始まった時期として記憶される、などの指摘はなるほどと思わされました。
たしかに、小津安二郎の映画に残された戦後の皆んな貧乏だが助け合って生きていた時代は、東京オリンピックを境に姿を消したと言われています。

また、「シェーン」や「拳銃無宿」「荒野の七人」などの西部劇では、「罪のない農民」対「悪どい流れ者のカウボーイ」と言う描き方をされているが、本当は逆だと言う指摘には目を開かされました。内田の指摘では、当時の米国にはホームステッド法というものがあって、国有地で5年定住し耕作した者は64ヘクタールを自分のものにできたそうです。しかし、これはもともと誰のものでもないコモンである西武のフロンティアを農民の私有地にする法律であり、西部を開拓してきたカウボーイにとっては許せないことでした。
だから、彼らが農民を目の敵にしたのは一理ある、のだそうです。

土地からは離れますが、内田はベーシックインカムなどの福祉制度についてもコモンとして眺め論じています。
そこでは、公費で扶養される存在に対する凄まじい嫌悪と憎悪が観察され、それが本来なら(セーフティネットとして)自分達に利益をもたらす政策を毛嫌いし、逆に自分達をリスクにさらす政策を選好するという倒錯現象を生み出していると指摘しています。
その結果、例えば英国では、一時期の高度福祉社会のもとで文化的な百花繚乱状態となり、ビートルズなどが生まれたにもかかわらず、その後のサッチャーの自己責任論により貧困層の切り捨てが起き、それまでのupper、middle、workingの三階層の下に新たにunder classが生まれ固定化してしまったと批判しています。なぜなら、切り捨てられたこの階層はそれまで福祉制度の恩恵に預かって無為徒食の生き方をしてきたため、(朝起きて身繕いして出勤するなどの)就労するという生き方を知らず、ホームレスになるしかなかったからです。内田によれば、このような社会から流動性が消えるような政策は間違っているそうです。
でも、ではどうすれば良かったのかについてはこれ以上の言及はありません。自己責任論を振りかざしてコモンたる高度福祉制度を潰してしまった結果は、指摘通りの社会の荒廃でしたが、かといって皆んなで貧乏すれば良いというものでもないでしょう。

しかし、本書のこれより後の部分は、言うならば時事放談のような内容で、コモンを論じてはいません。
政治を論じる論じ方には共感する点も多く、内田と私とは同じケミストリーの持ち主なのかもしれないと感じましたが、タイトルにコモンの再生とある以上、もう少し内容を充実させてほしいと思いました。
その意味で、Amazonのレビューならせいぜい星三つというところでしょうか。

コモンの再生、私なら「古民家村だより」が一番参考になるのではと思います。これは新潟県十日町市の竹所という「奇跡の集落」に、ドイツ人建築デザイナーのカールさんとアルゼンチン人の妻ティーナさんが移住してきて、打ち捨てられている古民家をカラフルに再生することで、集落そのものを再生する信じられないような記録です。
大きなヒントがここにありそうです。

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