『健康という病』

五木寛之『健康という病』(幻冬舎新書)を読みました。義母が持っていた本で、施設から返却されたものです。

五木寛之さんは私と感覚的に似た価値観を持っている人だと思ってきましたが、年齢的には14歳上です。つまり、少し先を走っている目の見える人の発する指摘に、はっとしたりなるほどと感心したりすることが多いのだと思います。
ウソのない学ぶことが多い人、です。

その彼も本書出版時は85歳(現在93歳)。
最大の関心事はやはり健康のようです。
本書はメディアに溢れている「健康情報」に振り回され右往左往することそれ自体を一種の病気ととらえ、そのストレスから抜け出して心穏やかに生きる方法論を模索した本です。

彼が自分の健康問題として捉えているのは、「睡眠」「排尿」「歯」「膝」「股関節」「食事」などで、いずれも私にもお馴染みの日常的な悩みがずらりと並び、それらに関するさまざまな、時には正反対の主張も含む「健康情報」について、辛辣な批評が続きます。

彼の健康に対する基本的なスタンスは、医者に頼らず(というより医者にかからず)自力で自分の健康を守る、というものです。
これは、朝鮮からの引き揚げを含む彼の過酷な少年時の戦争体験から自然に身についた自立性(というよりトラウマ)によるものだそうですが、これまで一度も医者の世話にならずに過ごしてこれたのは奇跡だ、と述べています。
健康診断など一度も受けたことはなく、歯科以外の病院を訪れたことは(見舞いを除き)一度もなかったそうです。
信じられない!

ただ、それも最近脚の痛みが耐え難くなり、初めて「軍門にくだる」ことになりました。
病院は思っていたより紳士的で懇切丁寧だったそうですが、一度も患部に手を触れることがなかったのが不満だったとのこと。今は画像診断が進んだので、そういう原始的な方法は使われなくなったのかもしれませんが、五木さんの不満は的を射ているように思いました。

医師のアドバイスは
  • 体重を減らせ
  • 筋トレしろ(大腿四頭筋)
  • 歩き方を変えろ
だったそうです。
つまり、近代的な病院も脚が痛いなどの老人性疾患には打つ手なしということで、それが彼の病院に対する結論です。

病院がその程度なら、健康は趣味と思うべし
病気は「治す」のでなく「治める」
人間は生まれながらに病んでいる。元気な病人として今日1日を過ごせばよし
治療ではなく養生
養生は趣味
・・・・・
こうして、彼の健康論は「趣味としての養生」にたどり着きました。

養生の極意は自分の体の声に耳を澄ますこと(自己との対話)だそうで、後は個人差を前提にした自分に合ったやり方を貫けば良いそうです。
この辺り、五木節全開です。

人間は百人百様。
一日三食主義なんて気にするな。オレは1日一食だ。
早寝早起き、規則正しい生活はできるに越したことはないが、向いていない人もいる。
・・・・・

腰痛も老化の一種であり、腰痛は治らない、と述べられていました。治ったように見えても、それはただ引っ込んでいるだけだそうです。
その対処法が述べられていましたが、文字で読んでもよくわかりませんでした。

本書の最後に、未来予測が語られていました。
要するにこれから団塊の世代が後期高齢者として津波のように押し寄せ去っていくので、その衝撃波に備えよということです。
彼らの未来は「寝たきり(=寝かせきり)」「認知症」「突然死」であり、その不安が世の中を覆っているが、その先に待っているのは未曾有の大量死時代であり、その実相はよく分からない。
それが恐ろしいそうです。
社会のお荷物と化した高齢者があちらでもこちらでも次々と亡くなっていく時代がすぐそこに迫っているのでしょう。
たしかに火葬場が足りないという声はよく聞きます。
しかし、彼らが支えてきた社会や国家や制度も老いて死を迎える時が来ているのかもしれません。

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