大晦日に思う
とうとう今年も終わりとなりました。
特に何をするというわけではありませんが、いつものように年越しそばを食べ、ちょっとテレビをつけては消し、命の蝋燭が短くなるのをカウントダウンする心持ちで年が明ける瞬間を待っています。
大晦日といえば、啄木のこんな歌があります。
ぢりぢりと、蝋燭の燃えつくるごとく、夜となりたる大晦日かな。青塗の瀬戸の火鉢に寄りかかり、眼閉ぢ、眼を開け、時を惜めり。
(石川啄木:一握の玩具より)
啄木の、思うに任せぬ自分の人生に対する焦燥感と諦念を感じさせる秀歌です。
彼の歌を読んでいると、歌というのは「感情の記憶を定着させる装置」だとつくづく思います。
情景を詠んでいるのですが、その背後に横たわっている激しくもまた儚い心の動きがはっきりと読み取れるのが優れた歌だと言えるでしょう。
最近の脳科学の用語を使えば、歌が詠みあげているのは「クオリア」です。
クオリアというのは、たとえば赤い色を見た時、それが鮮烈で生々しい赤だったり、巫女さんを思いだすような朱色がかった赤だったり・・・というような感情を伴って迫ってくる「質感」を指す言葉だそうですが、私たちが何かを見るときにはそれを名詞として理解するだけでなく、それが伴う感情をも同時に受け止めているのだそうです。
つまり、記号としての理解を表面とすれば、クオリアは裏面に貼りついている。
もしクオリアがなかったら、いつどこに何があったかということは把握できても、その記憶に血の通った生々しさは伴わず、茂木健一郎の言葉を借りれば「ゾンビの世界」になってしまいます。
コンピュータ(AI)が理解し再構築する世界は、そういう意味ではゾンビの世界ということになります。
火鉢に寄りかかって目を開けたり閉じたりしている情景を理解できても、その背後にある痛いような切ないような感情が励起されないのなら、啄木のこんな歌はなんの価値もないことになってしまいます。
時と場所と出来事に関する「エピソード記憶」の裏側には必ずクオリアの記憶、つまりそれに伴って生じた感情の記憶があり、こちらの方はなかなか消えないことが知られています。
そういえば、我が家と家族付き合いをしているM家のK子さんは、姑が認知症になり、ついに「あんた誰?」状態になったのだそうですが、そんなある時、K子さんをつかまえて「あなたが誰かは存じませんが、私はあなたが嫌いよ」
とのたまわったのだそうです(笑)。
顔や名前を忘れても、感情の記憶はしっかり残っているということです。
この感情の記憶が消えないことが残された家族の救いになったという体験談が、以前ここで紹介した
恩蔵絢子『脳科学者の母が、認知症になる』
に書かれていました。
恩蔵さんの母親は娘の名前を忘れてしまいましたが、依然として彼女が自分の大事な人であり保護と献身の対象であると思い続けているそうです。
感情の記憶には大きな価値があるということです。
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