Mさんの思い出
年2回送られてくる『社友だより』の訃報の欄を見ていたら、Mさんの名前を見つけました。
私が研究所から事業部に転属となり、たびたび米国に出張するようになった時、まだ言葉が不自由で海外経験も乏しいことを知った会社側が世話役(能力の低い私の面倒を見る係)としてつけてくれたのがこの人でした。
私のミニボスとして、いろいろ面倒を見てくださったことを懐かしく思い出しました。
当時の出張先はサンフランシスコやシリコンバレーが多く、そこで私はPDA(今のスマートフォンのような携帯デバイス)のOSを調達してくるよう言われ、開発にしのぎを削っていた数社を訪問して技術的な説明を受け、それを日本にレポートしていたのですが、そんな時Mさんには大変助けていただきました。
アポの取り方から会社訪問の仕方や自己紹介の仕方、質問の仕方、NDA(秘密保持契約)の扱いなど、海外企業との接し方のイロハは皆彼から教わりました。
彼は、駐在員として長年彼の地で頑張ってこられた方で、私は彼から駐在員としての苦労話をいろいろ聞かされたものです。
さて、この時印象的だったのは、向こうの会社(ほとんどがスタートアップ)では社長(CEO)が自らノートパソコンを操作してプレゼンを行うと言うことでした。
日本では、エラい人はワープロすら使えず、文書の清書が部下の仕事の大きな部分を占めていた頃です。
プレゼンなんて、部下がやるものと決まっていました。
握手をしてもらいながら、会社のトップが自ら営業の最前線でアピールする姿に単純な私は カッコイイ! と感激しました。
そしてお土産として、必ずと言っていいほど、Tシャツをもらいました。
あれから長い年月が経ち、Tシャツの多くは廃棄処分となりましたが、今でも大切に保存してある記念の品が何着かあります。
ただ、日本に帰り、調達候補としてあるOSについて報告したところ、事業部長から大目玉を喰らいました。
そのOSは今では当たり前のインタープリター型の言語で作られていたのですが、それが気に入らなかったのです。
バカヤローッ、そんな遅いOSなんか使い物になるかっ、と怒鳴られ、この提案はボツとなりました。
彼はコンパイル型の言語以外はダメだと言う認識でしたが、当時もはやそんなものは時代遅れになりつつあったのです。
ちなみにこの事業部長はある日私に、当時話題になり始めたインターネットについてどう思うかとご下問され、私が(当時業務用ネットワークの主流だった)専用線のシステムの多くは近いうちにインターネットに移行するだろうと述べたところ、またしてもバカヤローッと怒鳴られてしまいました。
インターネットだと? フン、あんなもの! と吐き捨てるように言った言葉が記憶に残っています。
典型的な老害でした。
話をMさんに戻すと、彼と一緒にいて死ぬほど恥ずかしい思いをしたことがあったのを思い出しました。
シアトルに行った時のことですが、「そうだ、ビル・ゲイツに会いに行こう」と突然言い出したのです。
昔、マイクロソフトがMS-DOSを開発していた頃、日本の電機メーカーの何社かが彼の元に駆けつけ自社のパソコンにMS-DOSを提供してくれるよう頼んでいた頃の話ですが、狭いアパートの一室でビル・ゲイツと共に試作機にOSを搭載してテストをした現場に(駐在員として)立ち会ったことがあったのだそうです。
だからビルは自分のことを覚えているはずだというのですが、相手はすでに大会社に成長したマイクロソフトの代表者です。
用もなく訪問しても相手にしてくれるわけはないと思いましたが、Mさんは私に先輩風を吹かせたかったらしく、強引にベルビューの本社に連れて行かれました。
しかし受付で、「ハイ、ビルはいるかい?」という調子でアピールしたMさんは、すげなく追い返されてしまいました。
あれは、私も顔から火がでるほど恥ずかしかったです。
(そのシアトルもBLMと民主党の悪行で、全米一治安の悪い街になってしまいました。)
ともあれ、あの頃から30年が経過しました。
世界も自分も、30年も経てば変わる物だと、しみじみ当時を振り返って思います。
今日は三崎漁港で直接仕入れてきたと言って、息子がカツオを見舞いに届けてくれたので、それを炙っていただきました。
口の中でとろけるような美味しさでした。
ありがとう!
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