『誰にもわかるハイデガー』:不安と死について

筒井康隆『誰にもわかるハイデガー』(河出書房新社)を読みました。
136ページの薄い本で、難解な哲学を異常なわかりやすさで解説してあり、あっという間に読み終えることができたのには驚きました。
ハイデガーは何を言っているのかわからない変な文体(ジャーゴン?)で存在論を語っているので、私はいつも途中で投げ出してばかり(翻訳も良くないと思う)。ところが筒井康隆はその難解な哲学書『存在と時間』を入院中の一ヶ月余りで読破し、しかもこんな本まで書いているとは、一体どんだけ頭が良いんだろうと思ったら、IQ=187なんだそうです!

その筒井康隆流の解釈では、あの難解な概念である<現存在>は「死を引き受けて生きている存在」つまり「自分が必ず死ぬと知りつつ生きている人間」を指すそうです。だから人間以外は現存在になれない。チャーちゃんもクーちゃんも現存在ではないわけです。
そして、死ぬというのは存在しなくなることですから、存在しなくなることを前提とした存在という概念は矛盾を含んでいます。
それが人間固有の「不安」を生みます。落ち着かなくなるわけです。

(ここで不安というのは、何に対する不安なのか定かでない、つまり対象が存在しないという特徴があり、それ以外の対象がはっきりしているのは恐れとか驚愕とか戦慄とか狼狽などといった言葉で表現すべきなのだそうです。)

ところで、普段の私たちの生き方は<平均的日常性>というあり方だそうで、これは何となくわかります。こういうあり方をしている現存在をハイデガーは「世人せじん」と呼びます。
世人は、有体に言えば世人同士おしゃべりして調子を合わせて生きています。facebookなど典型的ですが、話題になった場所を訪れ、美味しいものを食べたといっては写真や動画をアップするなど世の中と調子を合わせて楽しそうに生きています。
あるいは仕事中毒になってがむしゃらに働いてみたりするかもしれません。
しかしこれは不安を忘れるための気晴らしに過ぎず、突如として現存在に戻り世人とワーワーやっていた世界から放り出されることが時々起きます。
そんな時、世人同士の付き合いが無性に虚しくなることがあります。

私は吉野弘の詩「burst 花ひらく」を連想しました。

事務は 少しの誤りも停滞もなく 塵もたまらず ひそやかに 進行しつづけた。

三十年。

永年勤続表彰式の席上。

雇主の長々しい讃辞を受けていた 従業員の中の一人が 蒼白な顔で 突然 叫んだ。

- 諸君!
  魂のはなしをしましょう
  魂のはなしを!
  なんという長い間
  ぼくらは 魂のはなしをしなかったんだろう -

同輩たちの困惑の足下に どっとばかり彼は倒れた。
つめたい汗をふいて。

発狂
花ひらく。

- 又しても 同じ夢。


また、ノーベル賞作家モーリヤックの小説「テレーズ・デスケルー」もそれらしく思われます。

主人公のテレーズは家柄も経歴も申し分ない男性と結婚したが、結婚してしばらくすると夫に言いようのない疲れと苛立ちを感じるようになる。理由は彼女にもわからなかったが、ごく普通の田舎のインテリで、周りの人と同じような考えを持った無難な常識人である彼を見ていると息苦しくなり、やがて彼女が身重になると全身が鉛で覆われたような気がするほどだった。
その頃から太り始めた夫は心臓を悪くし、医師から一定量の劇薬を飲むように命じられた。そんなある日、近くで起きた火事に気を取られて夫は劇薬を二倍量も飲んでしまうが、心も体も芯の芯まで疲れていたテレーズは見てみぬふりをした。
医師が来て介抱し、苦悶の時を経てようやく夫が眠りにつくと、テレーズはある衝動に囚われる。
しばらくして夫はまた同じ症状に苦しむが、吐瀉物からヒ素を検出した医師は町の薬屋を通して他ならぬテレーズがそれを注文したことを知る・・・。

なぜテレーズが家柄も経歴も申し分ない無難な常識人である夫に毒を盛るまで憎むようになったのか、しかし、それを不思議に思う読者はあまりいないと思います。
100%の<平均的日常性>に死ぬほどうんざりする・・・これは誰もが一度は経験したことのある感情ではないでしょうか。


このような現存在に立ち戻った時に、人は死から自由になるために「本来的に死ぬこと」を死に先駆けて了解するべきである、とハイデガーは言っているそうです。
自分が死ぬ前にいち早く先駆けて死を了解することを<死の先駆>といい、それは誰にでも可能だと主張されているそうです。なぜなら、死を考えると不安になりますが、その時に自分の中から「良心」の呼びかけが必ずあり、自分が「責めあり」の存在であることを認識せざるを得なくなるので、そこから死の方へ先駆することができるのだそうです。

(この辺り、キリスト教の原罪論を思い出してしまいますが、世人と馴れ合いながら現存在の不安から目を逸らして生きている私たちは、たしかにどこか後ろめさを感じるところがあるようで、キリスト教はそこをうまく掬い取って布教原理にしているのかもしれません。)

さて、死の方へ先駆するには自分の死と向き合わなければならないわけですが、その時に過去・現在・未来という時間性がリセットされ、あるべき自分に戻ると同時に自分固有の過去(の本当の意味)を取り返し、新しい視野で自分のすべき行動がわかる・・・のだそうです(うーん、よくわかりません)。

ところで、死に向かって先駆するというのは、本当に誰にでも可能なのでしょうか。

人は死ぬものだというのは、頭では理解できますが、では自分の死を本当にイメージできるでしょうか。
身近な人の死を目の当たりにした体験があれば、自分もあのようにして死ぬのだろうと思うかもしれませんが、それはあくまで外形的な死であって、死にゆく者の内部は絶対に窺い知ることはできません。特に、自分という<世界内存在>が今ここで消滅し何も残らないんだという死ぬ瞬間の喪失感は、他人には経験することも、まして代理することもできません。
そんな恐ろしいものを先駆して了解することが果たしてできるのでしょうか。

ここで本書に解説を寄せている大澤真幸という社会学者が卓抜な論を示しているので紹介すると、人間はそんな恐ろしい可能性にはなかなか正面から向き合おうとしないもので、それが聖書の最大の精神的ドラマであるイエスの最後に至る弟子たちの態度に示されていると大澤さんは言います。

イエスは間近に迫った自分の捕縛と処刑を恐れ、有名な最後の晩餐の後、ゲツセマネという土地に祈りに行きます。その時弟子たちに「私が祈っている間、ここで目を覚まして待っているように」と命じますが、祈りの途中で時々戻って見るといつも弟子たちは眠りこけています。
イエスは神の子ですから、神の子が死ぬということは世界の破局に等しい大惨事であり、それが今まさに自分たちの身にふりかかろうとしているのに、呑気に眠っている・・・これが人間です。切迫感に欠け、まだ大丈夫とかまさかそんなことがとか、破局がすぐそこに迫っていてもそれを痛烈に自覚することがないから、ユダはイエスを金で売り、ペテロは三度も知らないと否認するのです。
そこで大澤さんは、キリスト教では実際に破局が起きてしまい(イエスの処刑)、全てが終わってしまってから痛烈な悔恨と反省の気持ちに人を導くという独創的なストーリーを創造したと指摘します。人間は決定的な出来事の後に置かれ、そこから自分たちの現在を見つめさせられるわけです。これが原罪思想です。主が自分に代わって罪を償ってくれた以上、自分の人生全般にわたって誠実に生き抜く他はない、というのがキリスト教の教えの骨格です。
(実際にはキリストは復活し、昇天し、やがて然るべき時に再臨して人々を裁き救済するとされてしまったため、この先送りによってせっかくの破局インパクトが消えてしまったと大澤さんは批判しています。なるほど)

閑話休題。
こうして見ると、ハイデガーの哲学は最終的には人が差し迫った破局である<死>とどう向き合い、いかにして<本来的>な生き方に立ち戻るかという「悟り」について述べたもののように見えます。
ややこしい存在論に惑わされ、言葉の遊びのようにも見えたハイデガーですが、その根底にはこうした一種の神学が横たわっていたことが明らかになり、私の中でとりあえず一件落着となりました。

元々最初にハイデガーの名前を知ったのは、学生時代に三島由紀夫の『絹と明察』を読んだ時です。非常に完成度の高いこの小説が始まってすぐ二ページ目にこの名前が登場しますが、その哲学は小説が終わるまで全編で通奏低音のように響いています。
三島は彼のことをこう書いています:無神の神学といはれるハイデッガーの荒涼たる世界。

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