稲垣えみ子の『家事か地獄か』

登山の疲れは思ったほどではありませんでしたが、それとは関係なく昨日あたりからまた腰の調子が落ちてきました。今はレベル4程度かな。それでも
 痛みはデフォルト 痛みはデフォルト・・・
そう唱えながら、暖かい今日は港北ニュータウンをノルディックウォーキングしてきました(7.5km)。
腰が痛くても普通に歩けました。

稲垣えみ子の『家事か地獄か』を読みました。
前半はいつもの稲垣節で、会社を早期退職してものすごい断捨離をし、極小ワンルームに引っ越したら、理想の暮らしが待っていた云々という内容でした。
面白かったのは後半で、こうして会得した「ラク家事」は意外にもそれ自体が楽しく、老後にピッタリだという主張でした。


彼女の父親は、配偶者を亡くし一人暮らしを始めてから鬱々とし始めたそうです。そして、コロナのせいもあって足腰が弱りだし、これまでやってきた趣味の合唱サークルをやめ、通い始めたデイサービスにも気が乗らない風(「何から何まで準備してくれ、ありがたいけどそれだと生きている意味がわからない」)。老人福祉という外から与えられたことに生きがいを見出すのは、そうなってみるとどうしようもなく虚しいことらしいのです。
ただ生きているだけの自分に、一体何の意味があるのか。

ああやっばり。

でも、誰でも最後には「社会のお荷物」になって、ただ生きているだけの存在になるのはひどい罰ゲームではないか、と思うのが普通ですが、しかし、稲垣さんはただ生きているだけというその中身は実は家事ではないか、それが自分は楽しいと思えるのだから、「ただ生きているだけ」に満足できると思う、と言い切ります。

いつもの小鍋でご飯を炊くこと。
残り物のジャガイモと乾燥わかめで味噌汁を作ること。
汗臭い下着やシャツをタライでじゃぶじゃぶ洗って干すこと。
絨毯をホウキで掃いてたくさんホコリを集めること。

どれもたった一人の極小生活だから、あっという間に終わるし、これらのどれもが奥が深くて楽しい活動なので飽きることがない・・・これが彼女の到達した境地なのです。

最後まで、自分で自分の面倒を見ることができ、しかもそれが楽しい。人生はちゃんと「手に負える」んだ。これ以上の安心と幸福はない、と稲垣さんは断言します。
体力気力が衰えたら、それに合わせて暮らしを小さくし、最後まで自分の面倒を見ながら消えるように死んでいく・・・そんな理想の生き方・死に方が具体的にくっきり見えたそうです。

一読の価値ありと思いました。
ただし、稲垣さんに問題があるとすれば、毎日一汁一菜の食事では栄養面が心配だということです。
多分、タンパク質不足ではないかと想像されます。
これから高齢者になり、後期高齢者になっていくと、痩せているのは褒められたことではありません。

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