『恍惚の人』再読の衝撃
本棚の奥に鎮座していた有吉佐和子の『恍惚の人』が目に止まり、どんな作品だったかなぁと思って手に取ったらやめられず、とうとう終わりまで読み切りました。
昭和47年に購入したらしく、かれこれ50年近く前の作品ですが、テーマがテーマだけに今でも新鮮な気持ちで読むことができました。
物語は、杉並区に住む一家の話で、主人公の昭子は弁護士事務所でタイピストとして働いている職業婦人で、夫と子供、それに離れに住んでいる夫の両親と一緒に暮らしています。
ある日、仕事帰りに買い物を済ませ自宅に向かっていると、舅の茂造(84)と出くわしますが様子がおかしいのに気づきます。
家に帰ってみると、姑が上がりがまちのところで倒れているのを見つけますが、すでにこときれていました。
茂造はそんなことにお構いなしに、腹が減ったと言って手掴みで煮物を食い散らしています。
・・・これが発端。
それから姑の葬儀を済ませ(この辺りも微に入り細に入り)、様子の変な舅を一人にしておくことができずに母家に移ってもらいますが、それからは奇行の連続で、徘徊し、何かあると「昭子さん、昭子さん」と大声で呼び、腹が減ったと叫び、母家の水洗トイレでは用が足せないと喚き(結局昭子がだき抱えて庭でさせるようになった)、昭子は睡眠不足から事務所をたびたび休むようになります。
茂造は自分の息子である昭子の夫を忘れてしまい、「暴漢がいる」と大騒ぎする始末ですが、夫はただオロオロするだけで昭子の代わりをつとめようとはせず、朝が来ると逃げるように会社に行くのです。
物語はこうした修羅場の描写が延々と続き、読み進むにつれ陰惨な気分に打ちのめされそうになります。
それを掴んで離さない有吉さんの筆力は、すごいという他ありません。
彼女自身は、自分がもう少し歳をとっていたらこの作品は書けなかったと洩らしていたそうですが、読むだけでも辟易するわけですから、書くのは大変だったことでしょう。
物語は、老人クラブやそこで知り合った老婆との老楽の恋などのエピソードを挟みながら進行し、医者から呆けは老人性痴呆という一種の精神病で本当は精神病院に入れるしかないと言われてショックを受け、最後は茂造は肺炎で亡くなるのですが、それまでの一年間の苦闘は読者をもどっと疲れさせる凄まじい内容でした。
読み終わって、こちらも解放されホッとしたくらいです。
こんな地獄が待ち受けているとすると、自分も家族も耐え難いと思うわけですが、では何か打つ手はないのかというと、作品の中に茂造に愛想をつかした老婆の口を借りてこんなヒントが語られています。
少し長いですが、引用します。
まあ昭子さん、人間もああなっちゃおしまいですよ。ええ、ええ。私も我慢に我慢をしていましたけどね、立花さん(茂造のこと)は老人クラブでもみんなの笑い物になってくるし、ええそうなんです。あんなにぶっこわれるまでには死にたいもんだって皆が言うようになりましてね。何を話しかけても、はあ、とか、はいはい、でしょう。笑うでなし、喋るでなし、ぼーっと夢見てるような顔でしょう。それでたまに口を開けば腹が減ったって言うんですもの。私も面倒見切れませんよ。だんだん私までバカにされるんですもの。
(中略)
立花さんは八十四でしょ。クラブへ行ってごらんなさい。九十二で、ピンピンしている人がいますよ。耄碌するのは心柄ですよ。みんな立花さん見て言ってますよ。この人は頭も躰も動かさないからこうなってしまったんだって。きっと昔は怠け者だったに違いないって。人間は頭でも躰でも動かしていれば、いたむのが遅いんですよ。立花さんは亡くなった奥さんを使いまわして自分じゃ何もしない人だったんでしょう。昔は、男の方が早くいたむ、女の方が早く呆けるって言ったものですがね。男は家に引っ込むと動かないから躰が不自由になるんですよ。女は男ほど頭を使わないから、手足は動いても呆けるんだって聞いたことがありますがね。これは嘘ですよ、ええ、ええ、女は裁縫だって洗濯だって頭使って働くんですから呆けないんですよ。嫁は憎まれ口だって思うらしいんですけど、本当ですよ。頭使って、手足使って動いていれば呆けません。呆けませんとも。
もう一箇所、心に残るシーンがありました。
昭子が老人クラブを訪れたとき、利用者の老人の死に出会い、その後で壁に貼られた規約の中に
一、この敬老館は心身ともに健康な老人のためのものです。他人に迷惑をかけることのないよう気をつけましょう。
と書かれていたことに打ちのめされた時の一節です。
九十歳で死んだ老人は、一人で敬老館に来て、碁が打てるほど頭も躰もしっかりしていた。彼は心身ともに健康だった。しかし茂造はどうだろう。彼の肉体に関しては医者が健康だと太鼓判を押してくれたけれど、彼の頭つまり「心」の方の健康については、この敬老館へ出入りする資格はないように思える。昭子は憂鬱になった。九十まで碁が打て、友人ができ、楽しみを持って耄碌せずに死んだ老人を目で見たばかりだから、昭子の憂鬱はかなり愚痴っぽいものになった。思えば茂造は若い頃から文句ばかり言って躰をいといすぎたのではなかったろうか。一生熱中できるような楽しみごとも持たずに、べんべんと長生きをしすぎたのだ。面白みに全く欠けた一生だ。何が楽しくて今日まで生きてきたのだろう。息子も愛さず、妻も愛さず、嫁はいびり抜いて、孫も可愛がらず、自分の胃腸の具合ばかり気にした挙句が呆けてしまった。暴漢が入った、警察をよべと毎晩恐怖の叫びをあげるようになったのは、いったい彼の人生の何を象徴するのだろう。
死に際して、人はその全てをこのようにしてさらけだすのだと思うと、日々の営みをくれぐれも軽んじてはならないと改めて思い知りました。
重いけれど、良い本でした。
コメント
抜粋された文を読むと痛いほど胸に響きます。
当時はサラッと読んでいたであろうところは、この歳になると実感して重いです。
有吉佐和子は好きな作家ですが、今更ながらその洞察力に頭が下がります。
ご紹介有難うございました。
昔読んだ時は他人事。
今読み返すと、まさに自分たちのこと。
今日は、うかうかしていると自分もシゲゾウになってしまうぞ、と自分にハッパをかけました。
本書のもう一つのテーマは、上では取り上げませんでしたが、ジェンダー差別の問題だと思いました。
家庭内の気の滅入るようなトラブルの始末は、大体は主婦に投げられます。
たとえ彼女が職業婦人(懐かしい表現(笑))であっても。
岸田秀がいみじくも言ったように、日本の男性が母や妻に求めるのは「不快吸収機能」なのでしょう。