魔の山域:北鎌尾根
私はこれまで槍ヶ岳に3回登っています。順に記すと
1.北鎌尾根(バリエーションルート)から:単独
2.槍沢(一般ルート)から:山岳会の山行
3.北鎌尾根から:会社の登山仲間(Uくん、Sさん)と/熊に遭遇
最初の槍ヶ岳登山が北鎌尾根の単独行とは向こう見ずで呆れます。
結婚して日が浅い頃で、当時は先鋭的な山登りに憧れていたので、夏山だったにもかかわらずザイルとピッケルまで持参していく念の入れ方でした。ザイルは万一の場合に懸垂で脱出するため、ピッケルは帰路の槍沢の雪渓で使うためでしたが、もちろんただのカッコつけです(笑)。
でも、そのおかげで荷物はテントも併せて29kg近くになってしまいました。
しかも、後半は台風の直撃に見舞われ、ずぶ濡れになりながらほうほうの体で槍の肩の小屋に滑り込んだ有様でした。
途中でも岩場でルートを見失い逆走するなど、何事もなくて済んだのはただ運が良かったに過ぎません。
北鎌尾根はあの希代の単独行者、加藤文太郎が遭難した場所であり、また登山家の松濤明が壮絶な遺書を残して岳友と共に死んだのも同じ場所です。
以下は松濤の遺書です。
力果て、凍傷で鉛筆も握れなくなった指で書かれたのであろう、手帳のページも飛び飛びになって、乱れた文字で綴られていたといいます。涙なしには読めません。
1月5日 フーセツ
SNOWHOLE ヲ出タトタン全身バリバリニコオル、手モアイゼンバンド モ凍ッテアイゼン ツケラレズ、ステップカットデヤリマデ ユカン トセシモ(有)千丈側ニスリップ、上リナホス力ナキ
(二枚空白)
タメ共ニ千丈ヘ下ル、カラミデモラッセルムネマデ、15 時 SH ヲホル
1月6日 フーセツ
全身凍ッテ力ナシ
ナントカ湯俣迄ト思ウモ
有元ヲ捨テルニシノ
ビズ、 死ヲ決ス
オカアサン
アナタノヤサシサニ
タダカンシャ、 一アシ
先ニオトウサンノ
所ヘ行キマス。
何ノコーコウモ出
来ズ死ヌ罪ヲ
オユルシ下サイ、
井上サンナドニイロ
イロ相談シテ
(二枚空白)
井上サン
イロイロアリガ
トウゴザイマシタ
カゾクノコトマタ
オネガヒ
手ノユビトーショウ
デ思フコトノ千分
ノ一モカケズ
モーシワケナシ、
ハハ、オトートヲ
タノミマス
有元ト死ヲ決
シタノガ 六時
今 十四時
仲々死ネナイ、
漸ク腰迄硬直
ガキタ、全シン
フルヘ、 有元モ
HERZ ソロソロ
クルシ、ヒグレト共ニ
凡テオワラン
ユタカ、ヤスシ タカヲヨ
スマヌ、ユルセ、ツヨク
コーヨウタノム
(七枚空白)
サイゴマデ
タタカウモイノチ
友ノ辺ニ
スツルモイノチ
共ニユク
(松ナミ)・・・
以下略。
(二枚空白)などとあるのは、濡れてくっついたページを凍傷の指でめくれなかったためと思われます。
高級官僚の息子として生まれた松濤は、学徒兵としてジャワで戦った経験があるのですが、ただの兵隊ではなく、身分を隠して敵を欺き、バレそうになると田んぼの泥に身を沈めて首を出したまま何昼夜も過ごすといった壮絶な体験をした特務工作員(スパイ)だったようです(学徒兵にもそんなことをさせるんだ。)
そうした地獄のような戦場から生還した松濤は憑かれたように山にのめり込み、ほとんど自殺行為としか見えないような激しい登山を続けました。
そんなことを知らなかった私ですが、知らずに彼の虚無的な生き方の毒に当てられていたのかもしれません。
魔の山域である北鎌尾根ですが、その記憶もかなり薄れていた今日たまたま、ネットで詳細な登山記録を見つけ読み耽ってしまいました。
若い人の書いた全編ギャグ満載のテキストですが、写真も多く、その雰囲気を十分楽しむことができました。
田舎に帰って介護や病気や葬式の話題ばかりの高齢者と過ごしてきましたが、正直辛気臭くて疲れました。若い人はいいです。
男は笑って散れ!ド根性『北鎌尾根男塾』前/後編
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