陶淵明の挽歌

あれから気分がすぐれない日々を送っています。
肉親の死があらためて人生のはかなさを思い出させたからかもしれません。
こういう時は、時間が経つのを待つしかないと経験的に知っているので、ジタバタせずに流されています。

中国の詩人で、李白や杜甫と並んで有名な陶淵明の詩集をパラパラ眺めていたら、こんな気分にふさわしい挽歌を見つけました。挽歌といっても晩年に自分の死を空想して詠んだもので、ユニークと思います。
挽歌は普通、納棺、葬送、埋葬の三部構成をとっているそうで、これもそうなっています。その中でも一番響いた埋葬の歌を転記します。

擬挽歌詩 其三 (埋葬を歌う)

  荒草何茫茫  荒草 何ぞ茫茫たる
  白楊亦蕭蕭  白楊 亦蕭蕭たり
  嚴霜九月中  嚴霜 九月の中
  送我出遠郊  我を送りて遠郊に出づ

  四面無人居  四面 人居無く
  高墳正嶢嶢  高墳 正に嶢嶢たり
  馬爲仰天鳴  馬は爲に天を仰ぎて鳴き
  風爲自蕭條  風は爲に自づから蕭條たり

  幽室一已閉  幽室一たび已に閉ずれば
  千年不復朝  千年 復た朝ならず
  千年不復朝  千年 復た朝ならざれば
  賢達無奈何  賢達も奈何する無し

  向來相送人  向來相送る人
  各自還其家  各自其家に還る
  親戚或餘悲  親戚 或ひは悲しみを餘すも
  他人亦已歌  他人 亦已に歌ふ

  死去何所道  死し去りては何の道(い)ふ所ぞ
  託體同山阿  體を託して山阿に同じうせん

(訳)
雑草が際限なく生い茂り
白楊(ポプラ)もまた寂しげになびいている
霜が厳しい晩秋九月のなかば
人々は私の遺骸を遠く郊外まで野辺送りする

周囲には人家もなく
高く盛られた塚(墳土)が突きあがっているように見える
その殺風景な有様に馬は天を仰いでいななき
風は寂しい音を立てて吹く

墓穴がいったん閉じられてしまえば
たとえ千年経っても朝の光が差し込むことはなく
千年たっても朝の光が差し込むことがなければ
賢人達士といえどもどうにもならぬ

葬儀が済むと私を野辺送りしてくれた人々は
それぞれ家に帰る
親戚は引き続き悲しんでくれるだろうが
他人はもう鼻歌を歌っているにちがいない

死んでしまっては、何をいっても無駄だ
いづれ我が亡骸は山の土になってしまうのだから

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