パワークラシー

内田樹さんの造語だそうで、アリストクラシー(僭主制)、デモクラシー(民主制)に続く新しい政治システムの概念です。
訳語はありませんが、本人は「権力支配」という意味だと述べているそうです。
王侯貴族ではなく、民衆でもなく、(民意で選ばれたはずの)権力者が支配する(好き勝手に政治を仕切る)という意味でしょうか。

彼は今回の統一地方選を「統一教会問題で自民は大きく議席を減らし、首相は退陣」と予測したそうですが、結果は大外れ。有権者は統一教会と自民党との癒着など気にもしていなかったことになります。
ただし、投票率は低く、平均で40%強、例の山口の岸信千世の選挙区では34%だと報道され、低投票率は世襲選挙への批判だとされているものの、それでもあのような人物が当選してしまうのですから、批判というほどのものではなさそうに思います。
有権者は内田氏の言うように「この先日本の政治がどうなっても自分は特段の関心がない」と意思表示したのでしょう。

私は個人的にはもう日本はダメだと絶望していますが、それでもまともな野党が存在していればそちらに投票したかもしれません。ところが、そんな野党はどこにもなかったのです。投票先がないという意味で、選挙に行く意味が全く見出せなかった今回の地方選でした。
しかし、このような状況は今回が初めてではなく、しばらく前から続いていることを考えると、そこに何か大きな底流の変化があるのではないかという内田樹さんの指摘は、ある意味でもっともだと思えます。

彼のいう「パワークラシー」とは、権力者の持っている権力の正統性を「神の委託」や「卓越した能力」や「民意の付託」に求めるのではなく、「すでに権力を持っていることそれ自体」に求める態度だそうで、ここから
 "権力者は正しい政策を掲げたのでその座を得たのであり、その座にある限り何をやっても正しい"(一時的独裁の容認)とか、
 "政策を批判するなら自分が国会議員になってからやれ"(市民の政治家批判の否定)とか、
 "野党が選挙で負け続けるのは与党のような政策を掲げないから"(権力側の政策の無条件肯定)
などといった最近よく目にするトンデモ言説が導かれるのだそうです。
たしかに"現状を変えたければまずこのシステム内で成功しろ"というのは、現状を否定する前提が現状の肯定であるという矛盾した論理であり、これでは出口がありません。
もし彼のいうように、日本の政治体制がパワークラシーに向かっているのなら、お先真っ暗です。

ところで、先日YMOの坂本龍一さんが亡くなられました。
彼はリベラル寄りの政治思想の持ち主だったと思いますが、最近の追悼記事を読んでいたら(今から振り返ると)随分能天気な意見を述べているのに気がつきました。
その発言があったのは、原発事故後の反政府運動の高まりがピークに達した頃で、安全保障関連法案に反対して結成された学生のグルーブSEALDsなどが活躍し始めていた頃だったと思いますが、要するに、これからこのようなゆるい形のデモが増えていき、日常生活にデモが根付き、SNSで中継されるという党派の匂いのしない政治参加のスタイルとして広がっていくと言う予想というか願望を述べていました。
日本もやがてフランスのように、日曜日は暇だからデモに行く、というふうになるだろう、と。そして市民参加型の政治に変わっていくだろう、と。
これも見事に外れましたね。

つまり、彼ら左派系の知識人の読みはことごとく外れたということです。
それは、権力対市民という彼らの信奉する対立図式がとうの昔に崩れ去っていて、私のように投票を通じて政治的な意思表明ができる世界では無くなってしまっていた、ということです。
日本の現実はもっと悲惨で、暗くて、希望のかけらすらないディストピアに変貌しつつあるのではないでしょうか。
内田樹さんはようやくそのことに気づいたのだと思います。

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