草原ハイウエイ
先日、ロシア人について調べた時、一つの疑問を抱きました。
それは、欧州に向かって次から次と東から「異民族」が押し寄せてくることです。
モンゴルあたりの蛮族と言われていますが、なぜ文明の発達した欧州に未開の蛮族がそれほど容易に攻め込めるのか、そのパワーの源泉は一体なんだろうと思ったのです。
同じことは中国史についてもいえます。
中国は、常に北または北西方面(満州とモンゴル高原)から蛮族の襲撃を受け続け、そのために多大な労力をかけて万里の長城を築いたりしました。
それどころか、中国は彼らに長い間支配されたりしています(元、清など)。
野蛮な遊牧民のどこにそんな力があったのでしょう。
この暑さで、あまり外に出られないので、こんな疑問の答えを探してネットを逍遥し本を読み漁っていました。
結論はまさに目からウロコ、これまでの理解が180度ひっくり返ってしまいました。
その要点は
- ホモサピエンスは20万年前にアフリカに現れ(人類誕生は200万年前)、その直後に最後の氷河期に見舞われたため、気候変動で一時は総勢一万人くらいに激減し絶滅寸前になった
- そのため18万年前頃から「出アフリカ」を決行
- その途中、東イラン高原〜南シベリアあたりに定着した遊牧民の集団が最初の大文明をミヌシンスクに築いた(その一部が元に戻ってBC3000頃にメソポタミア文明を残した)
- 他のエジプト、インダス、中国文明は時期も遅く単発的なものにすぎない
- この地域は「草原の道」と呼ばれ、シルクロードのバイパスのように見られていたが、実際にははるかに通りやすく、「道の駅」も備えた一種のハイウエイとして機能した
- そこから出て最初に歴史に名を残した遊牧民が「スキタイ」だが、これはギリシアのヘロドトスがそう呼んだだけで、実際は「サカ」と言う
- サカ人は騎馬遊牧民のコーカソイド(白人)で、ミトラ教を信仰し、金属加工を得意とし、政治権力のトップと宗教のトップの二人を並立させる「双分制」を採用し、飛ぶ鳥を信仰し、南北方向を20度反時計回りに傾けたシリウス方位を尊重した
- 釈迦はサカが訛ったもので、ゴータマ・シッダールタはサカ人の可能性あり
- ミトラ教は全ユーラシアの基本宗教として発展し、後のメシア待望型宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)はこれが起源であるし、ローマ兵士にも浸透していたので、キリスト教への移行もスムースだった
- スキタイ(サカ)に続き、匈奴、鮮卑、柔然、突厥などがここから現れ、最後はモンゴル帝国として欧州に攻め入った
つまり、古代から中世まで、ユーラシアの先進国はこの草原地帯だったと言うのです。
ただ、遊牧民なので石造の巨大建造物を作らず、文字も使わなかったので、誰もここが先進地帯だとは思わなかったと言うわけです。
たとえば、紀元前7世紀~8世紀のスキタイ(サカ)の工芸品は、信じられないほど精密にできていて驚かされます。
『ロシアについて』の中で、司馬遼太郎さんは南シベリアについて本当に気持ちの良い場所だと述べています。来てみないとその良さは日本人には想像できない、とも。
そこでたくさんの遺跡が発掘されていると言うミヌシンスクあたりをGoogleマップで「ドライブ」してみました(幹線道路は走れます)。
これがそうですが、見るからに気持ちの良さそうな草原と森が広がっています。
また、この地域はオビ川、エニセイ川、レナ川などのシベリアの大河の源流域に当たり、水にも恵まれているそうです。
これらの川の実際の雰囲気は、日本人には想像できないゆったりしたものだそうですが、冬には凍結するので馬橇で簡単に通過できるようです。
北極圏に流れ下るレナ川と沿海州に注ぐアムール川はバイカル湖あたりでは200キロも離れておらず、冬季には北極圏から日本海まで想像もできない速さで移動できると書かれていました。
このスキタイ(サカ)人は、草原ハイウエイを通って日本にも来ているようです。
しかも、何波にも渡って。
彼らは朝鮮半島経由ではなく、沿海州から日本海を渡って北海道南部や秋田あたりに上陸したそうで、その痕跡が多数見つかっています。
黒海やカスピ海、イラン高原あたりから日本まで簡単に来れるわけがないと思いがちですが、そのルートである平坦な草原ハイウエイは馬で一日に何百キロも進めるし、途中の補給インフラも充実し、同じ遊牧民が全ルートを管理しているので、安全に通過できたと思われます。
また、距離的にもいわゆるシルクロードよりずっと短いようです。
(メルカトール図式だと長く見えますが、実際には草原ハイウエイは最短距離であり、飛行機もここを飛びます。)
(続く)
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