薄明の思考

昨夜は夜中に目が覚めてしまい、一時間ほど起きていた。
このような薄明の時間に起きている時に人は何を思うか。

私の場合、仕事で起きているわけでもない天から与えられた贈り物としての無為な時間を前にすると、満たされているようでそこはかとなく落ち着かない気分になる。

ハイデッガーは退屈には三種類あると述べている。

  1. 殺風景な片田舎の駅で列車を四時間待つ時に感じる退屈
  2. 仕事を中断して人の家に客として招かれ、晩餐にあずかり、ワインを楽しみ、談笑し、深夜になって帰宅して出掛ける前に中断した仕事の前に座ると、ふと--楽しかったけれど、あれはやっぱり退屈していたのだ--という思いが脳裏をかすめるといった類の退屈
  3. 日曜日の午後、大都会の街中を歩いていて、思いがけず突然なんとなく陥る退屈(空虚感)

1は、例えばキヨスクで週刊誌でも買って時間を潰すなどしてしのぐことができる。

2はそれに比べるとずっと人生の根底に触れていて、他人との楽しい団欒が覆い隠していたのは空虚な時間だったと知るわけだが、それでも「あれはやっぱり退屈していたんだな」と思いながら独り音楽を聴いたり本を読んだりして空虚さを埋めることができないわけではない。

しかし3はどんな時間つぶしも効かない。
いったんこの退屈にとらわれると、何を見ても何をしても心楽しくなく、どことなく全てが空虚である。何もかもがどうでもよく、何をする気にもなれない。
現代人に固有の不安はここからくる。
薄明の時間に私が感じたそこはかとない不安はこれだ。

ハイデッガーは、こんな時こそそれに耐えて待ち、無意味の中から本質的なものが見えてくるのに目を凝らすべきだと言っている。
「根底からの通報」に耳を傾け哲学しろ、というわけだ。

それで思い出したのは、文明の勃興と推移だ。

ヤスパースは紀元前数百年の頃を指して「軸の時代」と読んだ。この頃、期を一にして地球上に大きな動きが生じた。中国、インド、イラン、パレスチナ、ギリシャ・・・これらの地域で一斉に哲学が出現し、科学が成立し、高度な普遍的宗教が誕生した。
ヤスパースによると、人間はこの頃自己の無力さと世界の恐ろしさを認識し、深淵を前にして解脱と救済と超越を熱望したのだそうだ。

その後、「軸の時代」は終わり、この人間精神の激動に自ら触れ、そこを突破したか否かで人類は「歴史的民族」と「未開民族」に分かれていく・・・というのがヤスパースの考えらしい。
前者はユーラシア大陸の西端と東端でそれぞれヨーロッパ、日本(と新羅)に継承発展し、精神革命を経験しなかった後者(アフリカやアメリカ原住民、ラテンアメリカ原住民)は西洋文化と接触しただけで急速に消滅した。

個人もまた民族と同様、「根底からの通報」に耳を傾け哲学(広義)しなくては滅びる運命にあるのかもしれない。


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