佐々成政

少し前ですが、佐々成政の冬の立山越え(さらさら越え)について書きました。
その出典となった本がこちらです。

 遠藤和子『佐々成政 <悲運の知将>の実像』サイマル出版

なかなか読み応えがあり、戦国時代についての知見も深まりました。

成政にまつわる話としては、さらさら越えの他に愛妾早百合姫惨殺事件、堤防(佐々堤)築造、肥後転封と切腹、そして埋蔵金の話などがあり、どれも想像力をかきたてる逸話ばかりでした。

愛妾早百合姫惨殺事件

早百合は成政が北陸道を通行した際に見初められて側室として召し抱えられた女性です。当時はたくさんの子供を持つことが領国統治のために不可欠ということですが、美貌の早百合はことのほか成政に寵愛され、それが正室の嫉妬を招いたのがそもそもの原因であると著者は推測しています。

事件は成政がさらさら越えで留守にしている間に早百合が不義密通したという密告により始まり、その無実を知りながらも武家諸法度(当時の武家の法律)により噂を立てられた男女共を殺さなくてはならなかったのが真相と結論づけられています。
ところが、越中(富山)はその後加賀の前田氏が支配し、旧敵である佐々成政を暴君と位置づけるためにこの事件を成政の残虐行為として脚色したようなのです。

その殺害の描写が凄まじい!

成政、大いに怒り、糾問せずして直ちに両人を捕らえ、城の西に当たる神通河畔の磯辺堤の一本榎の下で鮟鱇(あんこう)切りとなし、親族十余人をも殺した。

鮟鱇切りというのは、口の中に縄を通して吊るした後、口から水を差し入れ、外皮を削ぎ、肉を裂き、肝や腸などを取り、骨を切るという調理法で、この事件では、親族が一人ずつ首を撃ち落とされるたびに吊るした早百合の体を切り刻んでなぶり殺しにしたとされていますから、ただごとではありません。

しかし、これが前田氏側によるひどい脚色であることは傍証から明らかであると著者は指摘しています。

堤防(佐々堤)築造

立山連峰からの雪解け水や台風シーズンの豪雨により富山平野は度々大洪水に見舞われてきました。しかし、佐々成政は巧みな技術を駆使して水流をコントロールする霞堤(切れ目を入れ重複させた堤防で、氾濫時の水流拡散と収束時の水流吸収を効率的に行うもの)を築造し、今でも感謝されているそうです。

肥後転封と切腹

秀吉の天下統一後、佐々成政は秀吉に召し抱えられたが、朝鮮征伐に備えて九州を進軍拠点とするために肥後国主に転封させられました。ところが土着の武士の勢力が強い肥後の地で秀吉の意を汲んで太閤検地を強行しようとした成政は一揆を起こされ、その責任を問われて切腹させられます。
著者によれば、秀吉の強行策が原因であるが、それを認めたくない秀吉が佐々成政に責任転嫁したものだそうです。

その最後がこれまた凄まじい!

腹十文字にかき切り、臓腑をつかみ出し、時分はよきぞとて、頸を差し延ばされ候ところを、藤堂和泉殿介錯とも申し・・・

いやはや、昔の人は大変ですね。

埋蔵金伝説

この手の話は今までにたくさん読んできましたが、この佐々成政の埋蔵金の話はどう見ても本当らしく思いました。とにかく証人がやたら多いのです。

山深いある場所に行くと、7行7列に並べられた壺にぎっしり小判が詰められていて、時価総額は500億円を下らないと見積もられています。その場所にも諸説あるようですが、たとえばこんな戯れ唄のような言葉が伝承されています。

 朝日さす夕日輝く鍬崎に、黄金数貫数千貫、七つ並びの七並び、不老不死の大木の下

鍬崎というのはあのさらさら越えルートの近くにある鍬崎山(くわさきやま)の事です。そして、このような伝説の背景には、当時の富山地方が日本有数の金山を抱えていた事実があり、ある金鉱山の一つの坑道からだけで毎月二億五千万円くらいの金が算出されていたと言えば、越中全域でどのくらいの量になるか想像がつこうというものです。

このように一人の戦国武将について詳しく調べあげ、文献だけでなく現地調査も行って出来た本書からは、じっくり読むといろいろなことを学ぶことができ、まさに読書の醍醐味を味わうことができました。

佐々成政の子孫は、五摂家の一つ鷹司家や徳川家光、綱吉の正室、狩野探幽などキラ星のごとくその後の歴史に名を残しているそうです(浅間山荘事件で指揮を執った、初代内閣安全保障室長の佐々淳行氏はその末裔)。優秀な血筋なんでしょうね。

なお、私が黒部ダムから剱岳方面に抜ける時に度々通っていた「内蔵助平」は、通名が内蔵助だった佐々成政にちなんだ地名ということを知り、感慨深いものがありました。


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