「アメニモマケズ」

宮沢賢治の「アメニモマケズ」の中に、

という一節があります。何気なく読み飛ばしていましたが、ふと何故賢治はこの四つ--病気の子供、疲れた母、死にそうな人、ケンカや訴訟--を取り上げたのだろうかと疑問に思いました。

仏教ではこの世の苦しみはつまるところ「生老病死(しょうろうびょうし)」だという教えがありますが、「アメニモマケズ」とはどうもピッタリ合いません。
病気の子供は「病」、死にそうな人はもちろん「死」ですが、あとの二つはどうも座りがよくありません。

ところで「四苦八苦」という言葉があるので調べてみたら、八苦のうちの四つは上記の「生老病死」を指し、残りは

  • 愛別離苦(あいべつりく):愛する人と離れることの苦しみ
  • 怨憎会苦(おんぞうえく):憎い人、腹が立つ人と会うことの苦しみ
  • 求不得苦(ぐふとくく):求めたものを手に入れることができないことの苦しみ
  • 五蘊盛苦(ごうんじょうく):心と体が思い通りにいかない苦しみ

なのだそうです。
そうすると、先ほどの疲れた母は「五蘊盛苦」でケンカや訴訟は「怨憎会苦」なのかもしれません。

私は、この詩は賢治流解脱法を説いたものだと考えています。この「アメニモマケズ」のように生きれば、この世の苦しみから超越できるよと説いているのです。

気やの恐怖や辛い五蘊盛苦は自分(賢治=仏教伝道師)が支えてあげるし、ケンカや訴訟の怨憎会苦は自分が割って入ってあげるよ。求めたものを手に入れることができない求不得苦に対しては、初めから求めず、玄米と味噌と野菜を食べ小さな萓ブキノ小屋で暮らせばいいよ・・・と言っています。

では「八苦」の残り(生、老、愛別離苦)については賢治はそれをどう扱っているのでしょうか。

まれてくる苦しみは、すでに生まれてきた人は全員乗り越えているからいいとして、賢治は妹の死で「愛別離苦」は経験していますが、とても正視に耐えない苦しみようだったようです。
(あめゆじゆとてちてけんじや)
だから、これは乗り越えられないような苦しみとして敢えて扱わなかったのかもしれません。

残るいの苦しみについては直接的には何も言っていません。
ただ、日照りや冷夏のような自然のもたらす苦しみには逆らってもダメだよ、オロオロ歩くくらいしかないよと述べていますから、老化もこのような自然のもたらす苦しみだから逆らっても無駄だよ、オロオロ歩くくらいしかないよと思っているのかもしれません。
・・・と、こじつければこじつけられるかな、くらいですが。


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