読書記録『魂の退社』

稲垣えみ子の「老後とピアノ」という本が気に入ったので、続いて東洋経済オンラインに連載の「買わない生活」という連載を全て読み、とうとう彼女が50歳で朝日新聞を退職するに至った顛末を書いた『魂の退社』という本まで読みました。
この本には大変感心しました。

最初に髪型をアフロに変えた一件を契機に、彼女が次第に変貌していった経緯が語られます。きっかけは飲み会の会場にあった小道具のアフロのかつらをかぶってみたところ、周りも自分も似合っていると思ったことなのだそうです。しかし流石に勤め人としてあの髪型はないわけで、数年はそのままに過ごしたのですが、その頃から会社と自分との間に隙間風が吹き始め、ある日アフロにする決心をします。
つまり、40代になって社員の選別が始まり、自分は「負ける」のではないか、自分の将来はそれほど明るくなさそうだという鬱屈した気分がこのような決断の背景にあったわけで、その辺りの機微は私にもよくわかります。

やがて彼女は朝日新聞社という世間的にも立派な会社を辞め、無職になってしまいます。
そしてそのことを通じて、それまで予想もしなかった日本社会の現実に直面し、衝撃に面食らい、恐怖し、考え、発見し、次第に違う人間に変身していくのです。

 おもろうて やがて悲しき無職かな

会社勤めをしたことがない人には分からないでしょうが、出世というイベントは自分の価値観を大きく歪めてしまいます。別に社長になりたいわけじゃなし、そこそこであれば俺は平気だ、と当初思っていたとしても、同期入社の同僚に追い越されると心穏やかではいられず、深く傷つくのです。そして、自分も同じかより上の立場に立ちたいと思うようになり、やがて人事異動に一喜一憂し、自分が評価されないと差別されていると感じ、いじけて不満の塊と化してしまうのです。
稲垣さんもそんな危機的な心理状態に陥るわけですが、そんな時、うどんで有名な香川県に「流され」ることになり、その地で初めて豊かな自然と人々の自由な生き方に触れ、視野が一気に広がるという体験をします。

香川県での彼女の職種は「総局デスク」というもので、普通二年ほど勤め上げると別の勤務地へ転勤するのが慣わしなのだそうです。そのことを向こうで親しくなった友人に話すと「えーっ、いややわー、寂しいわあそんなん。もう会社辞めて高松に住んだらええのに」と言われ、それまで考えても見なかった会社を辞めるという発想が頭の中に住み着くようになります。
もちろんその時は冗談で終わるのですが、山折哲雄氏(宗教学者)が紹介して有名になった「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」を思い出し、会社員→定年後という現行の会社システムはあまりに乱暴ではないかと考え出します(同感)。人生百年の時代に生きる私たちには林住期が必要ではないか、という問いには想像以上に深い意味があることに気がつき、退社が具体的な意味を持ち始めます。

同時に、それまで会社の自分に対する評価に一喜一憂していた稲垣さんは将来に見切りをつけ、開き直り、自立した社員として会社に対して堂々と物を言い行動するようになります。そして、その流れの先に会社を辞めると言う選択肢が具体的なものとして見えてきます。
さらに、それを後押しするような事件がいくつか起きました。

1.東日本大震災:節電を始め、電気はないものとして生活し始めた。照明もつけず、テレビもつけず、冷蔵庫はオフ、電子レンジをはじめ様々な家電製品を捨てると言う徹底ぶりを通して、「必需品」と言う概念を疑い始める。
2.朝日新聞の記事捏造事件:窮地に陥った会社を救うために、一年間できることは全てやったそうです(何をしたのかは不明)。

そして時至り、とうとう会社を辞めることにしたのです。

ここまでで本書の三分の2、残りは会社を辞めてから発見した日本社会の真実に関する、言うならば哲学的考察です。これがまた地に足がついた考察で素晴らしい。
まず、日本社会では会社員でなければ人ではない的な現実があることを指摘しています。

  • 不動産屋に行き、部屋を借りようとすると無職であることから断られる。
  • クレジットカードを作ろうとして断られる。
  • 年金、健保が会社の保護下から(割の悪い)国の傘下に移行。
  • フリーではなく会社に再就職する意思がないと失業保険が受け取れない。
  • 退職金にかかる税金は早期退職者には厳しい。
  • 国の年金では暮らしていけず、会社の補助がある厚生年金でやっと生きていける。
等々。
日本国では会社に所属していないと自動的に枠外扱いとなり、会社こそが国民の命も暮らしも保障してくれていることに彼女は衝撃を受けるのです。

また、稲垣さんはこれまで使ってきた会社支給のスマホを手放したため、自分のスマホを買いに携帯ショップに出向き、そこで訳のわからない料金プランに翻弄され、現代商品文化の詐欺的性格に気付きます。ここの記述は(携帯にある程度詳しい私から見ても)非常にリアルであり、完全に納得です。

単に私の頭が悪いのではなく、ITがらみのシステム自体が詐欺的である。

そう思えば、最近色々訳のわからないことが多い自分は古くなったのか、などと悩む必要はないことがよくわかります。
年寄りに「何とかペイ」や「スマホ」といった最新IT技術の使い方を教えることが無条件に良いことだと思い込んでいるあなたは、哲学が足りないと言われても仕方ないと私は思います。

こうして現行の会社文化の行き着く先は詐欺であることを見抜いた彼女は、日本社会の行き詰まりはイコール会社の行き詰まりであると喝破します。労働者を使い捨てにし、詐欺的テクニックを駆使して要らないものを買わせるブラック企業ばかりの末期資本主義から抜け出すためには、一人一人が自立しなくてはならないと説く稲垣さんは、会社依存度を下げることを提案しています。会社依存度を下げるとは、会社が社員を縛る力の源泉である「カネ」と「人事」から解放されることで、具体的には
  • 物を手放し、古くて狭い家に住む
  • できるだけ物を買わない
  • 家事をする
  • 近所付き合い、友達付き合いを大切にする
  • 健康でいる(会社の人間ドックに健康を丸投げしない)
  • 人に喜んでいただく本当の意味の仕事をする

しかし、彼女は決して会社を全否定しているわけではなく、そこで人生の過酷な旅を経験することで旅に出る前の自分と違う人間に成長する場を提供してくれる存在として高く評価してもいます。
ただ、肝心なのは「旅を終える」ことだと言います。

会社は修行の場であって、決して依存の場にしてはいけない。
その意味で、50歳で退社して林住期に入る自分のような生き方を皆んなも考えてみてほしい。そう言っているように感じました。
これこそが本当の哲学ではないでしょうか。

コメント

人気の投稿