寂しい老後

義母の姉が亡くなり、家内は昨日から急遽里帰りをしています。
この人はもう少しで103歳になるというところでしたが、もうずっと車椅子で、ここ10年ほどはほぼ寝たきり状態でした。
体を動かすことのないそんな状態で、どうしてこんなに長生きできるのか、本当に人間の寿命とはわからないことだらけです。

葬儀が終わり(と言っても家族葬ですが)、家内から電話がありました。
義母の施設に立ち寄り、姉の死を伝えたそうですが、あぁと言っただけでけろりとしていたそうです。
想像ですが、義母(97)も相当頭の方が弱っているようです。

留守中私は猫の世話で忙しくしていましたが、それでも今日は少しだけ外歩きしました。
先日の日記で、偉そうに暑熱順化トレーニングをしていると書きましたが、その直後に始まった強烈な蒸し暑さに打ちのめされ、ここ三日ほどはお休みしていたのです。
今日は曇り空で風も強かったので、歩くのには好都合でしたが、腰の状態がかなり悪く距離は短めとしました。
こういうことがあると、長期の登山など怖くて行けません。

外歩きをしていれば気が紛れるのですが、一人テーブルに置いたコーヒーカップを前にぼんやりとしていると、もしこれが猫たちも家内もこの世からいなくなって自分一人だとするとどうだろう…などと空想にふけることがあります。
これまでは、孤独だがそれを楽しむゆとりのある老人像を思い描くことが常でしたが、今回はちょっと意外にも、この寂しさに耐えられないかもしないと弱気になっている自分がいました。
いつも、家内や猫たちに話しかけることができていて、そが寂しさを紛らわしてくれていることに改めて気がつきました。

私は読書好きで、近場の年寄りたちと面倒な付き合いをするより一人で本を読んでいた方がいい、それも一種の社会的コミュニケーションだと言い張ってきましたが、視力もどんどん落ちてきているし、いつまでも好きなだけ本が読めるわけではありません(家内はもうすっかり読書から遠ざかっています)。
本の理解力はまだあると思っていますが、それもいつまで続くか分かりません。
もし本がダメになったら、後は外歩きで気を晴らすことと音楽を聴くことくらいですが、腰の状態次第では歩くのもままならなくなるかもしれません。

もう一度本気でピアノを練習してみるか、とか、無理をしても山歩きをもっと頑張るか、とか頭の中がぐるぐるしていますが、私のようなタイプの老人はどうしたらいいのだろうと考え込んでしまいます。
でも、とにかく体だけは動くように必死で頑張り続けるつもりです。
寂しかろうがなかろうが、私は死ぬまでここで暮らしたいからです。

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