『地図なき山』
角幡唯介『地図なき山:日高山脈49日漂泊行』を読みました。
著者は冒険家だそうで、北極圏やグリーンランドなどを一人で歩き回っているようです。
本書は、そんな冒険家の彼が故郷の北海道日高山脈を地図を持たずに彷徨した記録です。
著者は冒険家だそうで、北極圏やグリーンランドなどを一人で歩き回っているようです。
本書は、そんな冒険家の彼が故郷の北海道日高山脈を地図を持たずに彷徨した記録です。
私が初めて日高山脈の威容を目にしたのは、新婚旅行で北海道に旅した時のことでした。
初めて乗った飛行機の上から眺める地上の様子にすっかり夢中になっていた時、突然真っ白な山々が眼下に広がり、その巨大さに圧倒されたことを今でもはっきりと覚えています。
特に、カール地形がいくつも観察され、さすが北の国の山だけはあると感心したものです。
後に、日高山脈は北海道でも特別の秘境とされていて、一部の山域以外は人が踏み込むことのない原始の世界だと知り、その理由の一つがヒグマの存在にあると聞いて自分には縁のない山々だと思いました。
著者は北海道が故郷でありながら、それまで日高には登ったことも近づいたこともなく、地図すらろくに見たこともなかったそうですが、それを幸いとほとんど地理的予備知識を持たずにこの秘境に分け入り、文字通り手探りで漂泊の旅を始めました。
旅は都合四回に分けて行われ(後半の二回はもう一人と一緒)、本書はそのトータル49日間の記録です。
なぜ彼はそんな冒険を始めたのか。
それは、アフリカを出てから南米の果てまで長い年月をかけて旅をしたホモサピエンスの自然に対する原初の感覚を、自分で実体験してみたかったためだそうです。
そして、それは地図などない状態に身を置くことで、初めて可能となる・・・と考えたわけです。
そうして得られた手探りの地理的世界観は、本書を読んだ私にもごく一部ですが、体感することができました。それだけでも価値のある読書体験でした。
角幡さんによれば、地図があると言うことはこの先に何があるか大体予想ができることを意味するので、それはすなわち未来があるという感覚を持てることにつながるのだそうです。しかし、地図がなく、全く予想のつかない世界と対面する状況には未来という感覚はなく、常に現在しかない世界に生きることになると言います。
それがとてつもなく新鮮だ、と。
そのことは、ある日たまたま山奥で人に出会った時にはっきり分かりました。
その時、その人が何気なく口にした「あちら側はこちら側と比べると谷の様子がずっと穏やかだ」という言葉によって、それまで散々苦労してきた角幡さんは(この先は楽らしいと)ひどく安心したそうです。
つまり、周辺の地理的情報(=地図に相当)が与えられたことで、これまでより楽な環境を進んでいく未来の自分をはっきりとイメージできたわけです。
面白いエピソードだと思いました。
人跡まばらな日高の原始境を地図なしで49日間もさすらうとき、食料はどうするのか。
私には想像もつきませんが、彼は米だけを持参し、他は全て現地調達したそうです。
つまり釣りです。
そんなに確実に釣れるのか、素人の私には疑問でしたが、本書を読み進むとそれが杞憂であることがよく分かります。
人の入らない日高の沢は魚の宝庫で、「てんから」という釣り竿に直接糸を結びつけただけの素朴な道具で、いくらでも岩魚やニジマスなどの川魚を釣り上げることができるそうです。
文字通りの入れ喰い状態なわけです。
こうして釣った魚は刺身にして食べ、満腹になると残った魚を焚き火で燻製にして翌日以降の食料として運搬するのですが、人の少ない原始の世界ではこのような狩猟採集生活が十分可能だったらしいことがよくわかるレポートでした。
昔の自然は(人に荒らされておらず)豊かだったんだ・・・と実感できました。
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