漱石のF+f

辻邦生さんの本で知ったのですが、漱石の大著『文学論』は世界文学を全てF+fの観点から眺め批評したもので、最初のページにはこう書かれているそうです。

 凡そ文學的内容の形式は(F+f)なることを要す

ここにF+fとは
 F:FactまたはFocus(焦點的印象又は観念)
 f:feeling(これに付着する情緒)
つまり文學では事実・事物と情緒が結合して書かれていなくてはならないという意味で、学術的なレポートなら事実だけでもいいが、文学では事実を書くことで情緒を引き出し伝えていかなくてはならず、一方でただ素晴らしい感動したとだけ書き綴ってもダメだ、という意味だそうです。

そんなの当たり前だと思うのですが、その当たり前のことがすなわち文学だと言い切ってしまうところに漱石の凄さがある、と辻さんは述べています。そして実際に漱石の作品を読むとどんな一行でもF+fの結晶形になっていると感心しています。

これを読んで私は小山田浩子『はね』を思い出しました。

これは中学受験に失敗し地元の公立中学に通っている「僕」と、その家庭教師で結婚したばかりの従兄弟の新婦「ホナミさん」の物語です。要約するとこんな話です。

❝ 僕は自転車でホナミさんの家に行き、数学と英語を習うのですが、ホナミさんは庭でメダカとヤゴを飼っていてそれを二人で眺めたりします。従兄弟が休みの日とぶつかってなぜか僕もホナミさんも緊張したりしますが、そのうちにヤゴが羽化する騒ぎがあり、翅がよじれていて飛べそうにないことがわかります。そのトンボは知らぬ間にいなくなり、飛べたんだ良かったねと喜んだのも束の間、僕のザックと自転車のカゴの間で潰れて見つかります。やがてホナミさんが妊娠し、家庭教師は終わりになり、僕は高校受験の塾に行くようになり、そのうちホナミさんが出産したので母と僕はお祝いを渡しに訪れます。その家にはもうメダカもヤゴもいなくて、洗濯物がいっぱい干してあり、ホナミさんは赤ちゃんを見せながら「受験まで面倒見てあげられなくてごめんね」と言います。僕は取れたトンボの三角形の頭を密かに持っていて、時々眺めています。

特にドラマチックな展開はありませんが、にも関わらず私は読み終わるまでドキドキが止まりませんでした。
なんと言っても新婚家庭の奥さんと中学生の男子が二人きりになって勉強したりメダカやヤゴを見たりする、その閉鎖環境下の性的?関係が強い緊張感を呼び覚まします。別に何かあるわけではありませんが、あってもおかしくはなく、それをどこかで期待しながら読み進むうちに妊娠・出産という劇的変化が訪れ、はかない関係は羽化したトンボのように断ち切られます。
ここには事実Fと情緒fが隙間なく結合し、小山田浩子さんの想像力が作り出した世界に強烈な存在感を与えています。これが文学の醍醐味だと漱石は考えていたのでしょう。

ちなみにこの小品の中でホナミさんの肉体的描写を挙げてみると、たったこれだけです。

顔も体も小さく白く・・・
ホナミさんはクリーム色の靴下でフローリングを音もなく歩いた。
ホナミさんは裸足につっかけだった。足の指がとても長く見えた。
今日もホナミさんは裸足だった。長い足の指の先端が真っ白に色を失って見える。
立ち上がろうとしてあっと言って尻餅をついた。
食卓に戻ってきたホナミさんは僕の隣に座りうどんの器を引き寄せた。「こっちだとトンボが見えるから」

つまり、えげつない連想を誘う表現はゼロ。それでいてどこか生々しい印象が想像力を刺激します。
ちなみに家内はこの作品を読んで一言、「この従兄弟ってバカじゃないの、新婚の妻がいる留守宅に親戚とはいえ中学生の男子を呼ぶなんて」でした(笑)。

さて、このF+fはどんな理論的根拠のある話なんでしょう。
明日はそれについて論じてみたいと思います。

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