吉本隆明の文学理論
難解で知られる吉本隆明の三大思想書とは、
- 共同幻想論(社会学)
- 心的現象論序説(精神医学)
- 言語にとって美とは何か(文学)
です。
これらが難解である一つの理由は文章が「悪文」だから、というのが定説です。
私はその理由を、彼が文章を書くとき、思想家としてだけでなく詩人としても振る舞っているからだとみています。つまり説明文が詩になっているのです。もちろん説明文としては落第です。
たとえば『言語にとって美とは何か』の第四章「表現転移論」の冒頭を見てみましょう。
ひとつの作品は、ひとりの作家をもっている。ある個性的な、もっとも類を拒絶した中心的な思想をどこかに秘しているひとりの作家を。そして、ひとりの作家は、かれにとってもっとも必然的な環境や生活をもち、その生活、その環境は中心的なところで一回かぎりの、かれだけしか体験したことのない核をかくしている。まだあるのだ。あるひとつの生活、ひとつの環境は、もっとも必然的にある時代、ひとつの社会、そしてある支配の形態の中に在り、その中心的な部分は、けっして他の時代、他の社会、他の支配からはうかがうことのできない秘められた時代性の殻をもつ。
わかりますか?(笑)
私ならこれをこう書きますね。
どんな作家も自分の思想を持ち、固有の環境で一回かぎりの生活をしている。その環境や生活はその時代・社会に固有であり、他の時代からはうかがうことのできない時代性を秘めている。
言っていることは大体こんなところでしょう?
格調は落ちるかもしれませんが、この方がずっとわかりやすいはずです。
吉本隆明が詩人ぶりを発揮して上のような持って回ったわかりにくい言い方で書いたことが原因で、これらの本が神格化され名声を博した、とは言い過ぎでしょうか。少なくともわからないのにわかったふりをして優越感にひたることは、あの時代の思想好きな青年の楽しみの一つだったと私は思います。
自分がそうだったから(笑)。
ところで、この本では言葉という表現手段について、それが何かを指し示すという機能と表現したいという自分の感情の二つの側面を持っていると述べています。
それぞれ「指示表出」「自己表出」と名付けていますが、例によってこの説明が詩的になされているので一読しただけではなかなかわかりません。しかし、何かを言葉にして表現したいという気持ち(自己表出)は、ただ単に他人に何か(事物)を指し示すだけではなく、大なり小なり自分の内部に込み上げてくる表現意欲の高まり(言いたい気持ち)を伴うはずですから、感情を含んでいるのは当然です。
つまり、ここにも漱石のF+fと似た構造が潜んでいるように思えます。
本書に掲載されているこの図は、言語の構成要素である各種の品詞が指示表出性と自己表出性のどちらによりウェイトを置いているかを示したものですが、当然ながら感動詞が一番自己表出性(情緒)のウェイトが高く、名詞が指示表出性(事物)のウェイトが高くなっています。
そしてこれらの品詞を組み合わせてできた文章も小説も、指示表出性と自己表出性の度合いの差こそあれ、両者の結合で成り立っているわけで、まさに漱石のF+fと同じことを言っている・・・ように私には見えます。
さて、事物を指示する名詞であっても、いくらかなりと情緒のウェイトがあり、それは文脈との関係でさまざまに変化することに注意したいと思います。寺山修司のこんな歌があります。
マッチ擦るつかのまの海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
マッチも海も霧もそれ単独では特にこれといった強烈な情緒を感じさせませんが、上の句で示したような情景としてセットで登場すると、これらの小道具は独特の雰囲気つまり情緒を醸し出します。この例のように情緒fは文脈の中で生じますから、優れた文学は優れた文脈の中から生まれると言えるでしょう。
これを脳科学の立場から眺めてみると、マッチや海や霧といった個々の事物は左脳、文脈は右脳が担当しますから、F+fが十全に機能するためには左脳と右脳がバランス良く働くように単語が選ばれ文章が組み立てられている必要があるといえます。この例では:
夜の海辺(波止場)に一人の男が佇んでいて、潮騒の音に耳をすませながらタバコを吸おうとマッチを擦ると海には深い霧が立ち込めていた・・・この光景全体には孤独感と解放感のないまぜになった詩人寺山修司の定まらない気持ちが巧みに表現されています。夜の海辺にわざわざ来てタバコを吸おうという気持ちになるのは、ざわつく気持ちを鎮めたいという思いがあるからに違いなく、しかしマッチの火に浮かび上がったのは予想もしなかった霧の立ち込める海の姿だった。あるべきもの(遠くまで広がっている海)がそこにないことに軽いショックを受けた詩人は、ざわつく気持ちの正体である祖国への揺らぐ気持ちや戦争への疑念を下の句で吐露します(寺山の父は戦死していて、当時の日本はあっさりと方向転換し復興景気に湧いていた)。そして、この吐露が逆に上の句の光景に一層の深みを与えています。
歌を言葉で理解する(左脳)→上の句の光景(海、マッチ、霧)の情緒を直覚する(右脳+大脳辺縁系)→下の句の意味を考える(左脳)→上の句の光景の印象:寂しさや疑念が増幅強化される(右脳+大脳辺縁系)→下の句の訴えに心を揺さぶられる(左脳+大脳辺縁系)→・・・
脳の構造自体がF+fの受け皿になっていることがよくわかります。
てんかんの治療のために左右両半球を繋ぐ脳梁を切断するという(素人の私から見ると)乱暴な手術があるそうですが、そのような手術を受けた人はもはや調和の取れた形でF+fの世界を見ることはできないと思われます。
クオリアの研究で有名な茂木健一郎さんによると、私たちの原始的な認識のプロセスに於いて、"ビロードのような肌触りの花びら"といった物の質感として感じられるクオリア(感覚的クオリア)の他に、"これは薔薇だ"というような認識された事物の解釈や意味づけを担うクオリア(志向的クオリア)があり、その両者が共同して実在感を生み出しているのだそうです。
これもF+fの基盤を構成している理論的根拠の一つと言えるのではないでしょうか。
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