佐々成政のサラサラ越え

この夏に行くつもりだった北アルプスの地図を眺めていて、「ザラ峠」という地名を見つけました。
二日目に通過する予定の場所で、立山から南に進み五色ヶ原に達する手前にあります。
ここは戦国の武将佐々成政(さっさ なりまさ)が厳冬期に北アルプスを横断した時に通過した場所と言われています。

当時、越中(富山)を支配していた佐々成政は加賀の前田と敵対していて、このルートからこっそり富山を抜け出し、浜松の徳川家康を訪れて加勢を頼んだとされています。
人生五十年と言われた時代に、49歳の成政がよくぞこの偉業を成し遂げたものだと感動します。
(ちなみに初代内閣安全保障室長を務めた佐々 淳行氏はその末裔だそうです。)

登山をする者から見て、厳冬期にこのルートを通るのはほとんど不可能に近いと思うのですが、いろいろな証拠から通ったのは間違いないそうです。
先日から、『佐々成政』(遠藤和子:サイマル出版)を読んできましたが、実際にどこを通ったのかはっきりしたので、今日はそれを地図に記してみました。

往きのルート

現在のアルペンルートが通っている弥陀ヶ原から松尾峠を経て立山温泉(今はない)に下り、そこからザラ峠を越えて黒部川に下り、さらに針ノ木谷-北葛岳-鳩峰を通って今の信濃大町に出ます。夏道がないところも、厳冬期には輪かんじきで楽に通過できた可能性があるそうですが、特に前半は雪も深く雪崩の巣を通るため、非常に困難であることは確かです。(クリックで拡大)

往路


復りのルート

信濃大町から姫川沿いに北上し、平岩駅のあたりから明星山の裾を絡めて青海川に達し、そこから栂海新道の坂田峠を越えて上路川沿いに日本海へ出たようです。坂田峠は私も2017年に通過した場所なので、あそこを佐々成政が通ったのかと感慨深いものがありました。(クリックで拡大)

復路


いやー、衣類も装備も現代とは桁違いに貧弱な戦国時代に、たとえ従者が百人以上いたとしても、よくもこのようなルートを歩いたものだとびっくりしました。
当時の武将たちは日々戦いに明け暮れストレスいっぱいの人生を生きていたわけで、わたしらのような軟弱者には想像もできないような強靭な人間だったようです。

最近、明智光秀があのような謀反に走ったのは、そのような戦国時代に信長のような異常に活動的な主君の元でストレスにさらされ、ついにメンタルをやられたためではないかという説が出てきましたが、さもありなんと思います。

著者の遠藤和子さんは地元の出身で、師範学校を出て教員生活をされた方ですが、ご存命なら95歳になられています。実際にご自分でザラ峠を始めあちこち歩かれていて、本書は各地の古老などから聞いた貴重な証言に裏打ちされたドキュメントになっています。尊敬に値する著者と思いました。

ちなみに佐々(さっさ )とは変わった名前ですが、もともとは佐々木だったのを、主君の信長が長すぎるとして短く呼んだためだそうです。
短気な信長に可愛がられていた様子がしのばれます。

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