泣きました
今朝、枕元のiPadを寝ぼけ眼で手に取ったら、亡くなった母がこちらを見ていてびっくりしました。フォトフレーム機能がONになっていたらしいのですが、スライドショーで次々と写真が表示され、思わず見いってしまいました。
母だけでなく父も登場し、その葬儀の時の写真も映し出されました。
この仕掛けを通じて両親が何か語りかけているような、そんな気がしました。
呼ばれたのかな?
ジムは今日も相変わらず混んでいました。雨の土曜日だったせいもあるかと思いますが。
夜になって、YouTubeで素晴らしい演奏を見つけました。
リヒテルの演奏するシューベルトの最後のソナタ(遺作)です。
精神の一番深い場所、生まれてきた時にそこから現れ、死ぬ時にそこに戻る孤独で静かな場所。
この演奏はその場所にまで響いてくる清冽な音符の流れ(音の誕生と死)であり、文字通りの稀有な演奏と言って良いと思います。
今朝の両親との思いがけない出会いを思い出し、泣きました。
作曲家の中村洋子さんは、作曲者シューベルトについてこんな風に語っています。
シューベルトの曲は、次々に美しいメロディーが繰り広げられるため、骨格の確かさに目が行かず、「思い浮かぶまま、流れるように作曲した」、「構成が弱い」などという極めて表層的な通説が、幅広く流布しているようです。
大変、嘆かわしいことです。
そのような見方で演奏したり、聴いたりしますと、シューベルトの世界を、さらに「見誤る」という結果になります。20世紀における「調性崩壊」の源流も、実はシューベルトにあるのです。
「思いがけない遠隔調への転調」は、彼の特徴ですが、これも、思い付きでしているのではなく、緻密な調設計のうえでの作為です。
これを、気付かない人が「思いがけない転調」といっているだけなのです。
これは、バッハに端を発し、ベートーヴェン、シューベルトに受け継がれ、ショパンへ流れていきます。シューベルトに関する本は、あまり多くありません。
なぜなら、彼はめぼしいエピソードに乏しいからです。
通常の「音楽論文」は、「楽曲の分析」より、「エピソード」に依存して書くことが多いためです。
音楽は、作曲家の残した楽譜の上にこそあります。
是非、彼の楽譜を基に、研究していただきたいものです。シューベルトの短い31年の生涯は、ただただ、作曲をするために費やされたのです。
ですから、面白おかしい逸話などは、残っていなくて当然なのです。
この演奏に対し、印象的なコメントが多数ついていました。一例を紹介します。
・This interpretation of the first two movements is perhaps the most eloquent testimony ever made about the frozen loneliness of the human condition. It has been said that where words end, music begins. The first two movements are “Die Winterreise” all over again, but beyond words.
(最初の二つの楽章の解釈は、凍てついた孤独という人間の条件について多分これまでになされた最も雄弁な証言である。言葉が終わるところから音楽が始まるという。最初の二つの楽章はまさに「冬の旅」の再現であり、しかも言葉を超えている。)・So beautiful I cried when I heard it. And I am a 71 year old grandpa.
(美しすぎて泣いてしまった。私は71歳のおじいちゃんなのに。)・Schubert sonata D960 is without question one of the summits of the history of music. The rendering of Sviatoslav Richter is solemn, emotional, musically more than perfect. A true monument.
(シューベルトのドイッチュ番号960のソナタは、疑いもなく音楽の歴史の頂点の一つである。リヒテルの演奏は、荘厳で感動的で音楽的に完璧以上のものだ。真の記念碑と言える。)
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