表の自分と裏の自分

意識と下意識と言ってもいいと思いますが、自分には「見えている自分」と「見えにくい自分」があります。

「見えている自分」は大脳前頭葉に存在する意識の座の働きによるもので、社会的な考え方をします。言い換えれば、自分を社会(周囲)に適応させようとする表の自分です。
これに対し「見えにくい自分」は脳の中心部にある大脳辺縁系の影響を強く受け、本能的・感情的な考え方をする裏の自分です。

当然この両者はしばしば衝突します。

よく「外面のいい人」「内弁慶」などと言われる人がいますが、これは表の自分が際立っている人で、外の世界に過剰に適応している人ですから、当然裏の自分とは強い対立関係にあります。
そのストレスからメンタルをやられることが多いのはこのタイプです。

反対に、社会的には無愛想で変人と言われるようなタイプの人は、外の世界に過剰適応しない分、裏の自分とは比較的うまくいっていることが多いようです。

この対立関係は、放置しておくと破綻しますから、どこかで折り合いをつけなくてはなりません。どうしても折り合えない場合、夫婦なら離婚すれば済みますが、表の自分も裏の自分も一人の人格の中に存在しているので、そういうわけにはいきません。

折り合いをつけるということは、どちらか、あるいは両方が折れることです。

「外面のいい人」がある時からやや人付き合いを減らしたり無愛想になったりした場合は、このような折り合いがつけられたと見て間違いないと思います。
また、すぐ感情を表に出したりしていた人が、次第に自分を抑え丸くなっていく場合も同様です。

折り合いをつけられても、それが常に良いというわけではありません。極端な例を出すと、オウム真理教に入信した信者たちは表の自分をダークな裏の自分に合うようにねじ曲げたのだと思われます。その方が彼らにとっては楽だったのでしょうが、人間は社会的動物である以上、現実から離れる方向への折り合いのつけ方は間違っているというべきです。

表の自分は社会に対して自分を最適化する存在ですから、活発で効率的で臨機応変で関心の幅が広いという特徴があります。しかし元気で前向きな反面、疲れやすいという特性もあります。
これに対し裏の自分は感覚や感情に忠実なので、遠く先を読んで判断することは苦手ですが、その時の気分を尊重し好きなことなら疲れ知らずにいつまでも活動することができます。

たとえれば、うさぎとカメみたいな違いがあります。

うさぎは目的地に素早く接近しますが、油断してのろまな(そして疲れ知らずの)カメに抜かれてしまいます。油断して、というのは、疲れたためなのでしょう。

人が自由であるという実感を持つときは、この疲れ知らずのカメの持つエネルギーが注ぎ込まれている時だと思います。
つまり、表の自分と裏の自分がうまく折りあえていて、表の自分の思うことを裏の自分のエネルギーを用いて実行できる時に、自由の感覚が生じると言えるということです。
孔子が「七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず」と言われたのはその境地を指しているのでしょう。

今日は掃除機をかけました。
夕食は私が久しぶりにスープカレーを作りました。


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