学生時代を振り返る(1)
今日はクリスマスイブ。ささやかな食事とケーキで祝いました。
メリークリスマス! |
娘の手作りケーキです |
60年代から70年代にかけて、自分の投げ込まれた世界が激しく動いていたのは知っていますが、あれはなんだったのか、未だによくわかりません。しかし、あれをわからないまま死にたくはないという気持ちがあります。
第一志望に合格し、晴れて大学生活の第一歩を踏み出そうとした時、私を待っていたのは混沌と失望の連続でした。
まず、生活の拠点として、大学の寮(今はなき駒場寮)に入りましたが、そこで目にしたのは授業にも出ず一日中布団の中に居て、時々起き上がってはギターを弾いている先輩たちの堕落した姿でした。
キャンパスに出れば立て看が林立し、最初は医学部の問題が取り上げられていましたが、やがて「安保」とか「革命」という言葉が溢れ出し、「安保」などという言葉に初めて接した自分は何も知らない田舎者なのかと狼狽したものです。
講義は想像していたものと違いすぎ、英語の授業はレベルが低くて退屈、第2外国語として選択したドイツ語の授業は内容そのものより女子が一人もいない殺風景な雰囲気に打ちのめされ、物理の講義は伊豆山健夫先生の超難解な内容に全然ついていけず、散々でした。
(ちなみに伊豆山先生は理学部の総代で頭のキレることでは有名な方だったそうです。東大教授を退官後、母校の開成中・高の校長などを務められましたが、東大教授が中学高校の先生になったと一部で騒がれたそうです。)
やがて5月に入り、連休を利用して帰省しましたが、そこに見つけたのは変わらぬ田舎の静かだが淀んだ空気でした。活気に満ちてはいるが扇動的で騒然とした世界と、沈滞してはいるが受容的な世界との間で、引き裂かれている自分を導いてくれる人はどこにもいないまま、再び東京に戻りました。高校の恩師たちが、あの当時東京の大学で起きていることなど何も知らなかったのは当然であり、まして親や親戚のおじさんなどが適切なアドバイスを与えるなどありえないことでした。
その頃、ある人の紹介で和敬塾の面接を受けることになり、幸いにして合格したので、6月になって目白台にある新しい寮に移りました。
和敬塾の生活については別の機会に譲りますが、ここは駒場寮とは対照的な右寄りの寮であり、70年11月25日に三島由紀夫が自決した時、理事長命令で一部の寮生が寮内に軟禁されたことがあったほどです。三島の「盾の会」の会員が複数居たためです。
東大闘争は安田講堂陥落で終息し、安保条約が自動継続となり、三島事件も終息し、やがて年が改まって次第に事態は沈静化していきましたが、逆に内ゲバなどが激化し、個人的にはますます世界がわからないという感覚を抱いたまま総合電機メーカーに就職することになります。
この間、私はろくに授業に出ず、読書と映画観賞に明け暮れ、親から見たら放蕩息子そのものだったと思います。そして、できの悪い学生のまま卒業し、やがて就職して社会人となりましたが、世界のわからなさはそれからも続きました。
当時私がわからないと感じていたことをまとめるとこの三つになります。
1.東大闘争は何のため?
医学部の闘いは「白い巨塔」に描かれているような権威的な教授会に対する学生と助手・講師の異議申し立てとして頭では理解していましたが、それでも世間から見れば特権的な東大医学部に所属する人たちが自らの特権を犠牲にしてまで闘うという激しさはどこからくるのか、苦労してこの道に進ませてくれた親に対してどう説明するのか、私には皮膚感覚として理解できませんでした。
ましてその後、「安保反対」「ベトナム戦争反対」に闘争目標が拡大していき、「東大解体」が唱えられ、他大学との「共闘」が行われ、大勢の市民がこの闘争に参加してきたことにはどのような正当性があるのか、誰かに煽られているのではないかと、世界的な「学生革命」の熱気には若い血潮をたぎらせ誘うものがあったものの、少し冷静に考えるとよくわからないことばかりでした。
2.知識人が政治の先頭に立つ根拠は何か?
「なんでも見てやろう」の小田実らが「ベ平連」を結成し、アメリカが深く関わっているベトナム戦争に反対するデモなどを行っていましたが、従来の左翼政党ではなく「市民」が政治に直接口を出すスタイルが新鮮でした。しかし、小田や大江健三郎、鶴見俊輔のような作家や知識人と言われる人々が先頭に立ってこうした「行動」をしている理由がどうもしっくりこず、反対に彼らの本業である著述業の中身はどうなのか、メシの種としてこんな運動をしているのではないかと疑問を感じるようになりました。また、それを鋭く指摘した吉本隆明や三島由紀夫に次第に惹かれるようになりました。
3.新左翼はどこに消えた?
社会人になってまず驚いたのは、学園であれほど吹き荒れていた政治の風がパタッと止み、反対に会社のために猛烈に働くことが美徳であるという文化が何の疑いもなく受け入れられていたことです。そういう点ではまるで別世界でした。
ある日、私は総務に呼ばれ、この話は口外無用だと釘を刺された上で、君の同期にこれこれこういう人物がいないか、と聞かれました。なんでも共産党の「細胞」の集まりがあり、そこに私の同期の誰かが出席していて「自分はまだ党員であることが会社に知られていないから、今のうちに情報を取ってくる」というようなことを言ったのだそうです。何のことはない、細胞に会社のスパイが潜入していたわけですが、大学ではほとんど相手にされていなかった共産党が会社では未だに仇敵のような扱いをされていることに驚くとともに、新左翼と言われていた存在はどこに消えてしまったのだろうかと思いました。
(つづく)
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