日本とユーラシア
前回、スキタイ(サカ)人は、何度も日本にも来ていると書きました。
彼らは草原ハイウエイを通り、ウラジオストックあたりから日本海を渡って北海道南部か秋田あたりに到達したようです。
Googleマップで計測したら、この海上ルートは約760kmと出ました。
朝鮮半島から九州だと220kmくらいですから少し長めですが、北の方は海があまり荒れないので、大河や内海を航行する経験豊富なスキタイ(サカ)人なら問題ない距離と思います。
アムール川からサハリンまでなら117kmしかありません。
スキタイ(サカ)以前にも、北ユーラシアと日本の間には交流があったようです。
当時、北海道には「日高見国」、東北には「扶桑国」があり、BC4000には三内丸山遺跡に見られる大集落が形成されたりしています(メソポタミア文明はBC3000だからこれより古い!)。
この遺跡には木造ですが大建築物があります。
また、東日本全域に太陽の運行と関係する方位のネットワークが張り巡らされ、主要な神社はその方位線上に建てられ、方位線の交点には巨石が置かれたり人が近づけないようにされたりしています。
つまり、こうした大規模な計測と工事を行えるほどの権力が存在していたわけで、そこにスキタイ(サカ)人を受け入れる基盤があったと考えられています。
第何波めかわかりませんが、有名なところでは秦氏が来ています。
4世紀の応神天皇の頃です。
秦氏は和敬塾で同室だった島津君の先祖ですが、パミール高原にいた大月氏がルーツで、民族的には突厥(チュルク)つまりはスキタイ(サカ)で、したがってコーカソイドの血が入っています(彼の高貴で整った顔立ちを思い出します)。
この図はBC2世紀のユーラシアですが、中央に大月氏があります。
そして、しんがりに来たのが蘇我氏です。
どうも、蘇我氏はスキタイ(サカ)が上の図の大月氏の西隣に作ったパルティア(帝国)にルーツをもち、パルティアがペルシャになり宗教が純粋なミトラ教からゾロアスター教に変質していく過程で、反旗を翻して北に移動した部族のようなのです。
彼らは弥勒信仰と阿弥陀信仰(どちらも太陽信仰)を唱えた仏教集団ですが、要するに紀元前にユーラシアで大宗教運動として広まったミトラ教の一派だそうです。
なお、蘇我氏の「蘇」はチーズなどの乳製品を、「我」は「戔」で矛と言う文字をを重ねたものですから、牛やヤギなどの乳製品を食し武力に優れた人、と言う意味だそうです。
知りませんでしたが、阿弥陀仏(太陽信仰)はインドには入っていけなかったのだそうで、日本で仏教と言うと「ナンマイダ」ですが、あれは日本と朝鮮だけなんだそうです。
インドは仏教の聖地とされていますが、あれも怪しいかもしれません。
仏教の開祖は釈迦ですが、これはサカです。そして、悟りを開いたのはインドやネパールではなく、当時のサカ人の国サカスタン(今のイラン東部)らしいとのこと。
インドには様々なものが後になって持ち込まれたのですが、それを全て「インドオリジナル」にしちゃったのかもしれません。私は、インドを(一部の崇拝者のように)あまり信用していません。
閑話休題。
蘇我氏が日本に持ち込んだもののリストです。
- (ミトラ教的)仏教中心の政治:弥勒信仰など
- シリウス方位:北を20度西に傾けるメソポタミアの神聖な方位
- 白鳥信仰:飛ぶ鳥信仰はミトラ教のもので、蘇我氏はバイカル湖で白鳥をそのシンボルにした?
- 政治権力のトップと宗教のトップの二人を並立させる「双分政」:天皇制の基礎
もちろん蘇我氏は、騎馬による強大な軍事力と土木工事力、それに北陸で採れるヒスイ(玉)由来の財力を備えて中央政権に下ってきたわけですが、初めから日本の指導者としてリクルートされた形跡があるそうです。
それも少人数で来たのではなく、何万人をも引き連れて日本に来たらしい。
言葉も通じたと言いますから、大変興味があります。
(当時の朝鮮半島は日本語が通じたそうですが、同じようなものかもしれません。)
蘇我氏はまず北日本の「扶桑国」に降り立ち、抵抗勢力を平定しながら南下して鹿島の地に至り、鹿島神宮を建立します。
この神社は北を20度西に倒したシリウス方位で建てられていて、地図で確認できますが、このことから鹿島神宮が神武元年(BC7世紀)に建立されたと言う伝説がウソであることがわかります。何しろ神武天皇は127歳まで生きたと言う伝説に基づく年代ですから。
もっと新しいはずです。
また、当時の扶桑国は北日本全土を治め、中国(北魏)に「扶桑館」なる大使館を置いて日本の代表として認識されていたようで、その後扶桑が日本を支配することになります。
蘇我氏はこの扶桑から時の政治の中心地である大和に来て、その地を飛鳥(あすか)と名づけ、また国名を「日本」とし、日本の王となりました。
日本はもともと扶桑国の名前として用いられていたものですから、その王である蘇我氏が日本の王であることを宣言したものと言えます。
「あすか」とはア・サカのことで、アは「聖なる」を意味する接頭語、サカはスキタイ(サカ)のことです。
蘇我氏の来訪を契機に、日本の多くの施設にシリウス方位が導入され始めました。
鹿島神宮以外にいくつか例を挙げると
- 大和にある最初の仏教寺院「坂田寺」(坂はサカ)
- 大和にある「太子道」
- 応神天皇陵
- 東北の大塚山古墳
- 丸山古墳
などです。これらは地図で確認できます。
その他、興味深いところでは、数字の八に対する特別な信仰が挙げられます。
- 三種の神器(八束の剣、八咫の鏡、八坂瓊(やさかに)の勾玉:ヒスイ)
- 八坂神社(坂はサカ)
- 八雲立つ日本列島
- イザナギ・イザナミの二神が結ばれた「八尋殿」
- 天照大神の子供は八人:「八王子」の意味
- スサノオの子供は八人
- 牛頭天王(八坂神社の祭神)の子供は八人
- 大宝律令の大罪の数は八(唐の律令では十)
などなどです。
ミトラ教では七が一回りをする聖なる数で、そこで何かが終了しますが、日本では続く八が再生を象徴する聖なる数になっているわけで、これは世界中でメソポタミアと日本だけだそうです。
こうなると、蘇我氏の出自であるサカ人がメソポタミア文明を起こしたと言う説の信憑性がグッと高くなります。
さらに、一説によると聖徳太子は大男でペルシア人だと考える人もいますし(蘇我氏も立派なガタイだったらしい)、当時の日本にペルシア人が来たと言う記録もあるそうですから、やはり彼らの出自はその方面で、常に草原のハイウエイ経由で日本とペルシアは情報交換をしていたのかもしれません。
しかし蘇我氏はやがて政権内部の抗争に敗れ、勝者である藤原氏などは朝廷と貴族に、敗者は地方の武士団や山岳民や賎民などになって、また別の歴史を作ることになります。
話が広がり過ぎましたが、こうして日本とユーラシア全域とは想像以上に密接な関係を持って発展してきたことが確認できました。
ひょっとしたら、南シベリア、メソポタミア、日本が世界三大文明とみなされる日が来るかもしれない、などと妄想してしまいます。
私がこの話題にこんなに強い関心を持つのには理由があり、それは次の機会に述べてみたいと思います。
(続く)
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