反知性主義
トランプ大統領には強固な岩盤支持層の人たちがいる、とはよく言われることだ。日本も、安部一強時代には同じ事が言われていた。そして、その岩盤支持層の特徴として、「反知性主義」という言葉が用いられてきた。
反知性主義とは、Wikipediaによると「データやエビデンスよりも肉体感覚やプリミティブな感情を基準に物事を判断すること(人)」だそうだ。必ずしも「衆愚」という意味だけではなさそうだが、もちろん幅の広い概念で、古くはアメリカのマッカーシズム(赤狩り)の時代に大学教授・知識人の家系だというだけで攻撃された事例を見ればそのことはよくわかる。(ポル・ポト政権では、メガネをかけているだけで知的だとして殺されたが、極論すればそこまで行くこともありうる。)
内山節という哲学者が、前世紀の末頃から「権力を持つものへの反発とは異なる、自分たちを抑え込んできた知の支配とでもいうべきものへの苛立ち」が広がってきたと指摘し、いうならば教養人(知の作法を身につけている人たち)による支配に対する反発が目立ってきたと述べている。
自由、人権、民主主義、社会的正義、環境問題などを近代的な知の作法にもとづいてもっともらしく語り、そのことによって社会の支配層を形成して行く構造が指弾されるようになったというのだ。
内山氏はインターネットにより教養のない人も発言の場を持てるようになった事が原因だと述べているが、前記反知性主義の解説を読む限り、インターネット登場以前の昔からそのような傾向が存在している。
そもそもキリスト教誕生からして、パリサイ人(知識人)に対する反発が基になっている。
哲学者にしては少し雑な論理のような気がする。
トランプのアメリカで、彼の一派を反知性主義と括ることは理解できるが、日本ではどうなのだろう。
安部前首相、麻生副首相、菅首相と、いずれも教養人とは異なる肌合いの人たちが続いて権力の座を占めているが、しかしながら、彼らを支持している人たちが反知性主義と言うほどの強い信念を持っているようにも見えない。せいぜい誰かが言っていたように、「日本にあるのは反対の反ではなく、半分の半。半知性主義しかない」(笑)
もちろん、日本では筋金入りの知性主義もない。
アメリカの反知性主義は、強烈な知性主義が先にあり、それに対するアンチテーゼであるが、日本にはそもそも強烈な知性主義もないかわりに、強烈な反知性主義もない。ロジックがなく、原理原則がない単なる権威主義しかない。
日本になぜ強靭な知性主義がないのか、と言えば、勉強しないからだそうだ。
野口悠紀雄さんの『1940年体制』と言う本によれば、戦後の日本を興していくモデルは製造業モデルであり、我慢強くて素直で協調性があれば良くて、特に知性はいらない。
日本の没落を見ていると、そのツケが回ってきたように思う。
(「半」知性主義の人は、没落とは思っていないらしいが。)
今日は久しぶりに掃除機をかけました。ホコリが一掃され、清々しい室内に癒されています。
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