快楽登山

我が家のリビングは壁一面が大きなライブラリになっています。だから、その前を通るときに、つい本に手が伸びてしまい、昔買った本を再読することがよくあります。
それで思うのですが、昔は読んでもよくわからなかった本が、今はよく理解できるようになった(ような)気がするのです。
論旨を追うというような論理的な理解力は昔もそれなりにあったと思うのですが、もっと深いところで、著者の本当に言いたいことが皮膚感覚として理解できるようになったのは最近のことだと思います。

そして、以前は小難しいことを言っていると思った人が、実は当たり前のことを当たり前に述べているだけであったり、当時の私には極論と思われたような意見が、今から見ればもっともな意見であったりすることに驚いています。それだけ当時の自分には広い意味での読解力がなかったことになるし、歳をとり人生経験を積んだことで理解に深みが出てきたということでもあると思います。

本を読む力は、加齢によって衰えるどころか、かえって強化されることもあるという嬉しい発見です。

今日は原真『快楽登山のすすめ』を手にとり、新鮮な気持ちで彼の意見に共感することができました。
この人は名古屋の医者で登山家ですが、過激な登山思想の持ち主と言われてきました。言うことが断定的で、当時の登山界の権威を真っ向から否定してみせたためでしょうが、今読み返すと、一つもおかしなことを言っていません。至極当然なことを堂々と述べているだけです。

その中で、新しい発見として、本のタイトルにある"快楽登山"の意味、登山における快楽とはどんな意味かということについて、当時の私には実感としてわからなかったであろうことが明確に述べられていることに気づきました。

登山は激しい肉体的活動であり、脚は言うに及ばず全身の筋肉を酷使するので、当然ながら登っている時は苦しさに満ち溢れています。しかし、山頂に達すればそれまでの苦痛から解放され、そこからの絶景は心躍る素晴らしい体験であるため、よく「苦労して山へ登るのは頂上に立つ楽しみのため」と言われます。
しかし、原真によれば、苦痛と快感は明確に分離できないし、すべきでもないと言います。苦痛とともに同時的に快感がある、と理解すべきなのだそうです。
今の私は、ここのところは実によくわかります。うまく言えませんが、肉体的苦痛と心理的快感が抱き合わせで訪れると思うのです。

著者はこの論点を踏まえた上で、"苦痛と快感の和がすなわち快楽である"と言い、マズローの「至高体験」やコリン・ウイルソンの「X体験」で言うところの快楽に相当すると述べています。ドストエフスキーの「地下生活者の手記」に出てくる歯痛と快楽の実存主義的議論が、こんな登山の本で展開されていたとは気がつきませんでした。

こうした議論の最後に、彼はこのような快楽を追求する「快楽登山」は、苦痛と快感の最適なバランスを見つけやすい「単独行」が一番良いと主張しています。
そして、こんな文章を綴っています。

(今の日本人が落ち込んでいる精神の荒廃と幼稚化を癒すために自然の中に入るには)条件がいる。まずは、意志を固めて、一人で山へ向かうことだ。孤独と寂寥を味わって初めて、そこに山へ登る喜びも生まれる。よき苦痛からよき快感が生まれるという法則に従って、そうなる。

昔は実感としてわからなかったこのような厳しい考えも、今はよくわかります。
人生も残り少なくなった今、私はこのような厳しさに惹かれます。


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