「知床旅情」の歌詞
昨日、「知床旅情」について触れました。
そして、YouTubeにアップされている様々な歌手の演奏を聴きました。
聴いているうちに、歌詞の意味がよくわからなくなってきました。
まず一番は
知床(しれとこ)の岬に はまなすの咲くころ
思い出しておくれ 俺たちのことを
飲んで騒いで 丘にのぼれば
遥(はる)か国後(くなしり)に 白夜(びゃくや)は明ける
二番はこうです。
旅の情(なさけ)か 酔うほどに さまよい
浜に出てみれば 月は照る波の上(え)
君を今宵こそ 抱きしめんと
岩かげに寄れば ピリカが笑う
これも一番の続きとしてよく理解できます。
ピリカというのはアイヌ語で「美しい」という意味だそうで、だから岩かげに連れ込んだアイヌの若い娘を指していると想像します。
ところが三番になるとわからなくなります。
歌詞はこうです。
別れの日は来た ラウスの村にも
君は出て行く 峠を越えて
忘れちゃいやだよ 気まぐれカラスさん
私を泣かすな 白いかもめを
"別れの日は来た"というのは、ロケ隊一行が羅臼を立って東京に帰る日のことを指すと思うのですが、それを"君は出て行く"と表現している主体はそうすると村の人の誰か、多分アイヌの娘ということになります。
一番と二番では"俺たち"ロケ隊が主語でしたから、ここで混乱してしまいます。
また、一番と二番ではでは君=アイヌの若い娘だったのに、三番では君=ロケ隊の誰かになっていて、同じ"君"が違う人を指しており、これも混乱の元です。
さらにカラスとかもめが出てきますが、これは誰のことを指しているのでしょう。
加藤登紀子さんがこの歌をカバーした時、聞き憶えに頼って歌ったので、最後の"白いかもめを"を"白いかもめよ"と歌い、森繁さんに「それでは意味が違ってしまう。君はわかっていない」と言われたそうです。たしかに加藤登紀子バージョンだと、行ってしまう人のことをカラスと言ったりかもめと言ったりすることになり、おかしいですね。
結局、私はこう解釈しました。
- この歌は森繁さんたちロケ隊と(アイヌの娘を含む)羅臼の村人とのつかの間の交情を歌ったもので、夜を徹して飲み明かし語り明かした体験が素材になっている
- 森繁さん?(気まぐれカラス)は、酔いに任せて心惹かれていた美しいアイヌの娘(白いかもめ)を浜に連れ出し、抱きしめようとしたこともあった(妄想?)
- やがてロケ隊は東京に帰ることになり、羅臼から峠を越えて去っていくが、それを見送る白いかもめが、自分のことを忘れないでねと気まぐれカラスに想いを投げる
三番になって主語が変わりますが、カメラはあくまで知床に設置されていて、そこから見た記憶が語られていると考えればそれほどおかしくないかもしれません。白いかもめが気まぐれカラスたちを"君"と呼ぶのには、依然として違和感が残りますが。
歌詞の詮索はこれくらいにして、私の場合、この歌で一番印象深いのは
飲んで騒いで 丘にのぼれば
という一節です。
これ、青春のあの頃でしか味わえない時間だと思うのです。
大学で言えば教養の二年間(旧制なら高校時代)です。
利害関係に縛られないつかの間の自由な時間。
飲んで騒いでなんでも気兼ねなく話し合えた裸の付き合い。
未来に待ち受けている過酷な運命を知らないモラトリアムの期間。
二度と戻らない懐かしい時代・・・。
そんな時の流れを味わうことができる贅沢な歌だと思います。
ところで、これを機会にいろいろな歌手の歌う「知床旅情」を聴き比べてみました。森繁もいいし、加藤登紀子もいいけれど、藤圭子の「知床旅情」はさすがに素晴らしいと思いました。
そこで今度は藤圭子のカバー曲をいくつか聴きました。(YouTubeは右のサイドバーに「次の動画」として関連するものが出てくるので、こういう聴き方をするのには便利です。)
いいですねー、この人。
今日はその中から「遠くへ行きたい」を取り上げます。
ジェリー藤尾やデュークエイセス、ダークダックスなどもいいですが、この藤圭子バージョンは特に心に沁みました。
彼女の生き様と深く繋がっている歌だから、という気がしました。
そして、本当に遠くへ行ってしまいました・・・。
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