アフガンからの恥ずかしい脱出
アフガンから自衛隊機でただ一人帰還した日本人女性の手記が東京新聞に載っていました。
当初、8月26日に日本大使館やJICAで働いていたアフガン人と共に出国する予定で、バスに乗って空港に向かっていたが、ISによるテロが起きてその日は中止。
翌27日に日本大使館の人から「まず邦人を先に出国させる」と連絡があり、集合場所のホテルに着いたところ、日本人は彼女だけであとは全て外国人だったそうです。
するとバスにタリバン兵が乗り込んできて、パスポートなどを念入りにチェックした後でようやく出発の許可が出て、タリバンに先導されて空港に向かったとありました。
空港の入り口で別のタリバン兵と揉めたりしたそうですが、一時間ほどして入るのが認められ、まずカタールの飛行機に横付けされて彼女以外の全員が降り、それから一時間ほど待って到着した自衛隊機(C-130)に乗ったところ、広い機内にたった一人だったそうです。
この人は色々あって20年前にアフガニスタンに入り、現地の人と結婚して日本が担当していた復興支援の仕事をしながら共同通信社の通信員としても働いてきた人で、夫と「リタイアしたら日本で暮らそうね」と話していたのに、スーツケース一個で帰らなくてはならないとは、と嘆いていました。
別の記事には、日本の復興支援事業で働いていたアフガン人の話が出ていました。
この人は26日のバスに乗っていたようで、テロのために中止になった後、日本大使館から待機するよう指示があったまま放置され、その後自衛隊が撤収したことを知り絶望しているそうです。
彼の言い分:行けないなら行けないとはっきり言うべきだ。放置は許せない。近所には退避しようとしたことを知られているので、いつタリバン兵が来るか気が気でなく、寝室には鍵をかけ銃を抱いて寝ている。
また、JICAで働いていた別のアフガン人は、日本大使館員に自分も退避させてくれと頼んだところ、「私には決める権限がない」とそっけなく断られたともありました。日本が自分たちを救う気が全くないことを知り、彼は「本当に失望した。腹が立つ」と話しているそうです。
今回の作戦をバイデン大統領は「撤収」であり「予定通り」と自画自賛していますが、実態は「敗走」であった事がよくわかる報道でした。
第一、まだ二百人程度のアメリカ人が取り残されているし、誰を退避させるかから始まり、空港までの移動や入港に至るまで全てタリバンの許可なくしては行えなかったことからも明らかと思います。
ところで日本政府の行動には何点がつけられるでしょうか。
当事者は言い訳はいくらでも言えるし、門外漢には中身に踏み込んだ分析はできませんが、他国がどのように振る舞ったかを知ることである程度評価することができます。
上に紹介した記事では、最初の退避バス運行は8月26日でしたが、実はそのはるか以前の8月17日に日本大使館員だけはさっさと英軍機に乗せてもらって避難完了していたのです。
実に9日も前に全員トンズラしていたわけですが、さらにその前の、カブールが陥落した15日にはトップの岡田大使はすでにいなかったというから呆れて物が言えません。
その当時、イギリスやフランスなど他国の大使や大使館員は退避せず、空港内に大使館機能を移転し、アフガン人のためにビザを発給し続けるなどしていたそうです。
特に目覚ましい動きをしたのが(ネトウヨの大嫌いな)韓国で、一旦退避した大使館員がアフガン人救出のためにカブールに戻り、バスの確保や現地スタッフへの連絡など現地のオペレーションに奮戦し、390人のアフガン人を退避させることに成功しました。
現地スタッフとその家族390人が無事に仁川国際空港に到着したのは、何度も出てくる8月26日のことですから、日本もその気があれば十分間に合ったはずです。
しかし、大使館員が揃って逃走した日本には、何かをするための目も耳も手も足も現地には残されていませんでした。そればかりか、日本はタリバンに日本と共に働いていたアフガン人のリストを渡してしまったのだそうです。検問を通過させるためとはいえ、実際にはこの人たちはほとんどアフガンに残されているので、いつタリバン兵が殺しにくるかと気が気でない毎日を送っているそうです。
何しろ歌舞はイスラム法で禁止されているという理由で、著名な民謡歌手を有無を言わさず銃殺するような連中ですから、日本のしたことは決して許されることではないでしょう。
それを対応が遅れたのは自衛隊法が不備だったからだとか、憲法が制約になったなどと論点のすり替えをしている人が多く、誤魔化すのも大概にしろと言いたくなります。
日本は韓国以下の三等国だったことが暴露された一件だったと思わなくてはなりません。
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